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イングランドの作曲家、音楽教育者 ウィキペディアから
フレデリック・コーダー(Frederick Corder 1852年1月26日 - 1932年8月21日)は、イングランドの作曲家、音楽教育者。
コーダーはハックニー・ロンドン特別区に生まれた。父はマイカ・コーダー(Micah Corder)、母はシャーロット・ヒル(Charlotte Hill)であった。コーダーは私立のブラックヒース校(Blackheath Proprietary School)で学び[1]、早くから主にピアノを中心として音楽教育を受けるようになった。後にヘンリー・ギャズビーの下で学び、その後はClaude Coulderyに和声法を師事した。
コーダーは王立音楽アカデミーで音楽教育を継続した。アカデミーではジョージ・アレグザンダー・マクファーレンに和声法と作曲を、ウィリアム・キュージンズにピアノを、ウィリアム・ワトソンにヴァイオリンを師事した。1875年にメンデルスゾーン奨学金を獲得した彼は、4年間国外で学べることになった。最初の3年はドイツのケルン音楽院で過ごし、フェルディナント・ヒラーから作曲を、イジドール・ザイスからピアノの指導を受ける。最後の1年はイタリア、ミラノに赴き、正式な教育は受けずに過ごした。しかしながら、彼はここでアッリーゴ・ボーイトやジュゼッペ・ヴェルディに会うなどしている。1879年にイングランドに帰国した彼は、まもなくブライトン水族館の指揮者となった。
1884年8月、彼は一ヶ月間ウィリアム・ロビンソン(William Robinson)の代役としてリチャード・ドイリー・カートのオペラ興行社の音楽監督となり、「Patience」や「Iolanthe 」といったオペラを携えて演奏旅行を行った。
コーダーは王立音楽アカデミーの作曲の教授に就任し[2]、1889年にはアカデミーの評議員になった。彼の門弟には著名なイギリスの作曲家がいる。グランヴィル・バントック、アーノルド・バックス、ヨーク・ボウエン、アラン・ブッシュ、エリック・コーツ、ベンジャミン・デイル、ジョセフ・ホルブルック、そして彼自身の息子のポール・コーダーなどである。コーダーはジョン・ブラックウッド・マキュアン、トバイアス・マッセイと協力し、1905年に英国作曲家協会を設立して初代議長に就任した[3]。
コーダーは早くからワーグナーに心酔し、ワーグナーの妻とともに「ニーベルングの指環」やその他の楽劇の英語訳を上演し、これらは初めて受け入れられるものとなっていった。彼自身の作品には歌曲やオペラ、カンタータなどがある[4]。その中でも演奏会用序曲「Prospero」はCD音源があり、総譜が入手可能である[4][5]。
コーダーは1876年9月25日に、ヘンリー・ウォルフォード(Henry Walford)の娘のヘンリエッタ(Henrietta-)と結婚した。2人の間には1878年6月30日に娘のドロシア・シャーロット(Dorothea-; 90歳代で没)、1879年12月14日に息子のポール・ウォルフォード(1942年8月7日没)が生まれている。コーダーの妹のローザ・コーダーは画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの友人であり、ロセッティの肖像画を描いている[1]。
コーダーが作曲した作品の一部を以下に記す[6]。括弧内は初演に関する情報。
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