Remove ads
スペインの小説家 ウィキペディアから
フランシスコ・アヤラ・ガルシア=ドゥアルテ (スペイン語: Francisco Ayala García-Duarte、1906年3月16日 - 2009年11月3日)は、スペインの作家。 短編小説や小説を書き、エッセイストとしても活躍した。著名な翻訳者でもあった。
フランシスコ・アヤラ・ガルシア=ドゥアルテ Francisco Ayala García-Duarte | |
---|---|
誕生 |
1906年3月16日 グラナダ(スペイン) |
死没 |
2009年11月3日、103歳 マドリード(スペイン) |
職業 | 作家、翻訳家、小説家、社会学者、弁護士、文芸評論家、大学教授 |
国籍 | スペイン |
教育 | 博士 |
最終学歴 | マドリード中央大学(現マドリード・コンプルテンセ大学) |
ジャンル | 小説 |
主な受賞歴 | スペイン国民文学賞、セルバンテス賞、アストゥリアス皇太子賞 |
活動期間 | 1925年から |
彼の文学的経歴は、前衛的な散文物語であるEl boxeador y un ángel(1929)やCazador en el alba(1930)を出版した頃から際立ち始めた。スペイン内戦の結果、亡命し、アルゼンチンで新しい生活を始め、権力をテーマとした短編集Los usurpadores(1949年)を出版した。Muertes de perro(1958)とEl fondo del vaso(1962)では独裁政権を取り上げている。El jardín de las delicias(1971)は自伝的であり、叙情的なスタイルとなっている。
法学者、文学教授、社会学者、エッセイストであり、1983年にはレアル・アカデミア・エスパニョーラの会員に、2004年にグラナダ文芸アカデミーの名誉会員に選出された。
1906年3月16日、アンダルシア州のグラナダ市に生まれ[1]、16歳でマドリードに移り、法学、哲学、文学を学んだ。彼は前衛的な文学界と関係を持ち、1920年代半ばに最初の2冊の小説を出版した。Tragicomedia de un hombre sin espírituとHistoria de un amanecerである。
アヤラは定期的にRevista de OccidenteとLa Gaceta Literariaに寄稿した。 1929年にマドリード大学から奨学金を授与され、1年間ベルリンに留学した[2]。ドイツでは、ヴァイマル共和国の衰退とナチズムの台頭を目の当たりにし、雑誌Políticaなどスペインの出版物の時評欄でそれを伝えた[3]。彼はマドリード中央大学(現マドリード・コンプルテンセ大学)で法学博士号を取得し、同大学の教壇に立った。
スペイン第二共和制の宣言以来、議会の顧問弁護士であった。 スペイン内戦が勃発したとき、南アメリカで講演をしていたが、共和党の主義主張に賛同してスペインに戻った。戦争中は現在でいう外務省に勤めていた。戦争が終わりに近づく頃、自身の父親の悲劇的な最期を知った。戦争の初め頃、父親はラス・ウエルガス修道院の管理者として任命されたブルゴスで、反乱軍によって逮捕され、ブルゴス中央刑務所に拘留されていたが、1936年10月、監獄内の暴力や処刑の犠牲となり、殺害されたのだった[4]。
第二共和制が崩壊し、ブエノスアイレスに亡命した。リオ・デ・ジャネイロに住んだ1945年を除き、ブエノスアイレスで10年間活動した。アルゼンチンの文芸誌 Sur や新聞『ラ・ナシオン』に寄稿し、出版社Losadaから作品を出版した。また、ロレンソ・ルスリアガとともに雑誌Realidadを創刊した。アヤラ1949年にアルゼンチンを去った[5]。
1950年代にはプエルトリコに移住し、プエルトリコ大学で社会学を教えることとなった。そこからアメリカ合衆国へ移り、プリンストン大学、ラトガース大学、ニューヨーク大学、シカゴ大学で教員となった[6]。
1960年、初めてスペインに戻った。それ以来、彼は毎年夏に戻り、一軒の家を買った。そして文学生活に復帰した。 1976年、マドリードに定住し、そこで作家や講師として、また新聞や雑誌に寄稿するなどの仕事を続けた。1983年、77歳でレアル・アカデミア・エスパニョーラの会員に選出され、1年後に就任演説をした。1988年にスペイン国民文学賞を受賞。1990年、アンダルシア名誉市民に選ばれた。 1991年にはセルバンテス賞[7]を、1998年にはアストゥリアス皇太子賞を受賞した。
フランシスコ・アヤラの小説はスペイン内戦の前と後の2つのステージに分けられる。
第一のステージ、スペイン内戦の前にTragicomedia de un hombre sin espíritu(1925)とHistoria de un amanecer(1926)を書いた。これらは伝統的な小説の類に含まれる。El boxeador y un ángel(1929)とCazador en el alba(1930)で、 前衛的な散文に取り組んだ。
長い沈黙の後、フランシスコ・アヤラは亡命中の彼の第二のステージをEl hechizado(1944)で始めた。これは、スペイン王カルロスIIに面会するクリオールの企ての話で、1949年のLos usurpadoresの一部をなしている。この本は7つの物語から構成され、権力への欲望が共通したテーマである。また、1949年にはスペイン内戦に関する短編を集めた『仔羊の頭 (La cabeza del cordero)』を出版した。1958年にMuertes de perro、1962年にEl fondo del vasoといった小説を書いた後、El As de Bastos(1963)、El rapto(1965)、El jardín de las delicias(1971)といった短編集の出版を続けた。1982年にDe triunfos y penas、1988年にはEl jardín de las maliciasで彼の人生のさまざまな時期に書かれた6つの物語が集録された[6]。
アヤラは回想録Recuerdos y Olvidos(1982、1983、1988、2006)を執筆した。彼は Academia de Buenas Letras de Granadaのメンバーだった。2003年11月、生まれ故郷のグラナダでasociación Granada Histórica(グラナダ歴史協会)の名誉会員に選ばれた。短編El tajoは作家イグナシオ・マルティネス・デ・ピソンによるスペイン内戦についての短編選集Partes de guerraのひとつに選ばれた[8]。
アヤラは1997年からAcademia Europea de Ciencias y Artes(ヨーロッパ科学芸術アカデミー)のメンバーだった[9]。 彼は2009年11月3日にマドリードで103歳で亡くなった[10]。彼の遺体はマドリードのサン・イシドロ墓地の霊安室に安置され、翌日身内だけで火葬が行われた。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.