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スペインのサッカー選手 ウィキペディアから
ファン・アントニオ・ピッツィ(Juan Antonio Pizzi Torroja, 1968年6月7日 - )は、アルゼンチン・サンタフェ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。ポジションはフォワード。スペイン代表であった。
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2018年のピッツィ | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
ファン・アントニオ・ピッツィ・トローハ Juan Antonio Pizzi Torroja | |||||
ラテン文字 | Juan Antonio PIZZI | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
スペイン アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1968年6月7日(56歳) | |||||
出身地 | サンタフェ | |||||
身長 | 185cm | |||||
体重 | 84kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
ロサリオ・セントラル | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1987-1990 | ロサリオ・セントラル | 57 | (27) | |||
1990-1991 | トルーカ | 30 | (12) | |||
1991-1993 | テネリフェ | 68 | (30) | |||
1993-1994 | バレンシア | 19 | (4) | |||
1994-1996 | テネリフェ | 73 | (46) | |||
1996-1998 | バルセロナ | 48 | (11) | |||
1998-1999 | リーベル・プレート | 17 | (6) | |||
1999-2000 | ロサリオ・セントラル | 28 | (19) | |||
2000 | ポルト | 11 | (3) | |||
2001 | ロサリオ・セントラル | 28 | (11) | |||
2002 | ビジャレアル | 13 | (1) | |||
通算 | 364 | (160) | ||||
代表歴 | ||||||
1994-1998 | スペイン | 22 | (8) | |||
監督歴 | ||||||
2005 | コロン | |||||
2006 | ウニベルシダ・サン・マルティン | |||||
2009-2010 | サンティアゴ・モーニング | |||||
2010-2011 | ウニベルシダ・カトリカ | |||||
2011-2012 | ロサリオ・セントラル | |||||
2012-2013 | サン・ロレンソ | |||||
2013-2014 | バレンシア | |||||
2014-2016 | レオン | |||||
2016-2017 | チリ | |||||
2017-2019 | サウジアラビア | |||||
2019 | サン・ロレンソ | |||||
2021 | ラシン・クラブ | |||||
2022-2023 | アル・ワスル | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
キャリアの大半をスペインで過ごし、特にCDテネリフェではプリメーラ・ディビシオン(1部)定着の基盤強化に貢献した。リーガ・エスパニョーラでは8シーズンで221試合に出場して92得点を挙げ、1995-96シーズンにはリーグ得点王(ピチーチ賞)に輝いた。スペイン国籍を取得し、1994年にスペイン代表デビューすると、4年間で22試合に出場して8得点し、UEFA EURO '96と1998 FIFAワールドカップに出場した。
アルゼンチンのサンタフェに生まれ、1988年にCAロサリオ・セントラルからデビューした。1990年にメキシコのデポルティーボ・トルーカFCに移籍し、その1シーズン後にはスペインのCDテネリフェに移籍した。1991-92シーズンと1992-93シーズンだけで30得点を挙げる活躍を見せ、後者のシーズンにはUEFAカップ出場権をもたらした。1993年夏にはバレンシアCFに引き抜かれたが、わずか1シーズンでCDテネリフェに復帰した。1995-96シーズンには41試合に出場して31得点を挙げて、ピチーチ賞(国内リーグ得点王)とヨーロッパ・ゴールデンブーツ(欧州リーグ得点王)を揃って獲得した。チームに再びUEFAカップ出場権をもたらし、1996年夏にFCバルセロナに移籍した。この時期のFCバルセロナにはロナウド、ソニー・アンデルソン、ルイス・エンリケなどの名選手が在籍しており、絶対的なレギュラーではなかったが、1996-97シーズンにはリーグ戦だけで9得点を挙げ、ファンからの人気は高かった。1996年にはスーペルコパ・デ・エスパーニャで、1997年にはUEFAスーパーカップとコパ・デル・レイで優勝した。1998年にはコパ・デル・レイで2連覇を果たし、リーグタイトルも獲得した。FCバルセロナでの最も記憶に残る瞬間はコパ・デル・レイ準々決勝アトレティコ・マドリード戦セカンドレグである。FCバルセロナは前半終了時点で0-3と劣勢に立っていたが、ピッツィが決勝点を挙げて5-4という逆転勝利に導いた。1998年にアルゼンチンに戻り、CAリーベル・プレートや古巣CAロサリオ・セントラルでプレーした。2000年にはポルトガルのFCポルトに移籍したが、わずか11試合しか出場せず、2001-02シーズン開幕後に再びCAロサリオ・セントラルに復帰した。2002年にはマルティン・パレルモを足の負傷で欠いていたスペインのビジャレアルCFに移籍し、そこで現役引退した。
スペイン国籍取得後の1994年11月30日、フィンランドとの親善試合 (2-0) でスペイン代表デビューした。1995年9月20日にマドリードで行われたサッカーアルゼンチン代表との親善試合 (2-1) では出生地の代表チームを破る活躍を見せた。1996年にはUEFA EURO '96に出場し、準々決勝に進出した。1998年にはフランスで開催された1998 FIFAワールドカップの出場メンバーに選ばれ、グループリーグ最終戦のパラグアイ戦ではフェルナンド・モリエンテスとの交代で途中出場したが、0-0の引き分けに終わってグループリーグ敗退が決定し、この試合を持ってスペイン代表から引退した。通算22試合に出場して8得点を挙げた。
34歳で現役引退した後はバルセロナの地域リーグでポロ選手となり、その後サッカー指導者の道に進んだ。2005年2月13日、ペルー人のホセ・デル・ソラールとコンビを組んでアルゼンチンのCAコロン監督に就任したが、シーズン開幕から3連敗したためにわずか2週間で解任された。2006年4月13日にはペルーのウニベルシダ・サン・マルティンの監督に就任したが[1]、同年11月に退任している。
2013年12月26日、ミロスラヴ・ジュキッチの後任として、古巣バレンシアCFの監督に就任した[2] が、リーグ戦を8位で終わり、2014-15シーズンの欧州カップ戦の出場権を逃したため、2014年7月2日に解任が発表された[3]。
2014年12月、クルブ・レオンの監督に就任した。
2016年1月29日、ホルヘ・サンパオリに代わり、チリ代表の監督に就任した[4]。2016年のコパ・アメリカで優勝し2連覇を果たすなど成功を収めていたが、FIFAワールドカップ南米予選で5位のペルーに得失点差で及ばず敗退し、辞任した。
2017年11月、サウジアラビア代表の監督に就任することが発表された。
2018年 FIFAワールドカップではサウジアラビア代表を率いたもののグループリーグ敗退に終わる。
しかし2連敗で迎えた第三戦目のエジプト戦に2-1で勝利し同国に本大会24年ぶりの勝利をもたらした。
2019年アジアカップ終了後退任した。
2024年、サッカーバーレーン代表の監督になり、アジアカップのグループステージで2勝1敗となり、グループステージを首位突破した。
シーズン | ディビジョン | クラブ | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|---|
1988-89 | プリメーラ | ロサリオ・セントラル | 26 | 12 |
1989-90 | 31 | 15 | ||
1990-91 | プリメーラ | トルーカ | 30 | 12 |
1991-92 | ラ・リーガ | テネリフェ | 34 | 15 |
1992-93 | 34 | 15 | ||
1993-94 | バレンシア | 19 | 4 | |
1994-95 | テネリフェ | 32 | 15 | |
1995-96 | 41 | 31 | ||
1996-97 | バルセロナ | 33 | 9 | |
1997-98 | 15 | 2 | ||
1998-99 | プリメーラ | リーベル・プレート | 17 | 6 |
1999-00 | ロサリオ・セントラル | 28 | 19 | |
2000-01 | スーペル・リーガ | ポルト | 11 | 3 |
プリメーラ | ロサリオ・セントラル | 10 | 4 | |
2001-02 | 18 | 7 | ||
ラ・リーガ | ビジャレアル | 13 | 1 |
# | 日付 | 場所 | 相手 | スコア | 結果 | 大会 |
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1. | 1995年1月18日 | ア・コルーニャ、エスタディオ・デ・リアソール | ウルグアイ | 1-0 | 2-2 | 親善試合 |
2. | 1995年9月6日 | グラナダ、ヌエボ・ロス・カルメネス | キプロス | 3-0 | 6-0 | UEFA EURO '96予選 |
3. | 5-0 | |||||
4. | 1995年9月20日 | マドリード、エスタディオ・ビセンテ・カルデロン | アルゼンチン | 1-0 | 2-1 | 親善試合 |
5. | 1996年11月13日 | テネリフェ、エスタディオ・エリオドロ・ロドリゲス | スロバキア | 1-0 | 4-1 | 1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 |
6. | 1997年2月12日 | アリカンテ、エスタディオ・ホセ・リコ・ペレス | マルタ | 4-0 | 4-0 | |
7. | 1998年6月3日 | サンタンデール、エル・サルディネーロ | 北アイルランド | 1-0 | 4-1 | 親善試合 |
8. | 2-0 |
クラブ | 就任 | 退任 | 記録 | |||||||
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試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 差 | 勝率 | |||
コロン | 2005年2月13日 | 2005年2月26日 | 3 | 0 | 0 | 3 | 3 | 8 | −5 | 0.00 |
ウニベルシダ・サン・マルティン | 2006年4月23日 | 2006年11月26日 | 33 | 13 | 8 | 12 | 36 | 38 | −2 | 39.39 |
サンティアゴ・モーニング | 2009年7月1日 | 2010年6月24日 | 39 | 13 | 8 | 18 | 53 | 70 | −17 | 33.33 |
ウニベルシダ・カトリカ | 2010年7月8日 | 2011年6月30日 | 53 | 35 | 10 | 8 | 110 | 63 | +47 | 66.04 |
ロサリオ・セントラル | 2011年7月1日 | 2012年7月5日 | 44 | 22 | 13 | 9 | 54 | 36 | +18 | 50.00 |
サン・ロレンソ | 2012年10月9日 | 2013年12月20日 | 49 | 21 | 19 | 9 | 69 | 43 | +26 | 42.86 |
バレンシア | 2013年12月26日 | 2014年7月2日 | 31 | 12 | 10 | 9 | 43 | 33 | +10 | 38.71 |
レオン | 2014年12月4日 | 2016年1月29日 | 50 | 25 | 6 | 19 | 96 | 85 | +11 | 50.00 |
チリ代表 | 2016年1月29日 | 2017年10月1日 | 29 | 11 | 6 | 12 | 43 | 35 | +8 | 37.93 |
サウジアラビア代表 | 2017年11月28日 | 2019年1月21日 | 22 | 7 | 5 | 10 | 24 | 32 | −8 | 31.82 |
合計 | 353 | 159 | 85 | 109 | 531 | 443 | +88 | 45.04 |
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