ファブリッツィオ・ラバネッリ

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ファブリッツィオ・ラバネッリ

ファブリッツィオ・ラバネッリ (Fabrizio Ravanelli1968年12月11日 - ) は、イタリアペルージャ出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード

概要 ファブリッツィオ・ラバネッリ, 名前 ...
ファブリッツィオ・ラバネッリ
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名前
愛称 シルバー・フォックス(銀狐)[1]、ペンナ・ビアンカ(白い翼)[1]
ラテン文字 Fabrizio RAVANELLI
基本情報
国籍 イタリア
生年月日 (1968-12-11) 1968年12月11日(56歳)
出身地 ペルージャ
身長 188cm
体重 84kg
選手情報
ポジション FW
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1986-1989 ペルージャ 90 (41)
1989 アヴェッリーノ 7 (0)
1989-1990 カゼルターナ 27 (12)
1990-1992 レッジャーナ 66 (24)
1992-1996 ユヴェントス 111 (41)
1996-1997 ミドルズブラ 35 (17)
1998-2000 マルセイユ 64 (28)
2000-2001 ラツィオ 27 (4)
2001-2003 ダービー・カウンティ 49 (14)
2003-2004 ダンディー 5 (0)
2004-2005 ペルージャ 41 (9)
代表歴
1995-1998 イタリア 22 (8)
監督歴
2013 アジャクシオ
2018 アルセナル・キエフ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
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クラブ経歴

要約
視点

1986-87シーズン、18歳の時に当時セリエC2のペルージャでトップチームデビューを果たし、そのシーズンのリーグ戦26試合で5得点を記録した[1]。翌1987-88シーズンには32試合で23得点を挙げた[1]。1988-89シーズン、チームはセリエBに昇格、ラバネッリはこのシーズン13ゴールを記録した[1]。この時のチームメートには、アンジェロ・ディ・リービオが居て、多くのアシストを供給されていた[1]。1989-90シーズンにアヴェッリーノに移籍したが、7試合に出場してノーゴールに終わり、10月にカゼルターナにレンタル移籍、27試合で2得点を決めた[1]。1990-91シーズン、一度はアヴェッリーノに複帰したが、すぐにレッジアナへと移籍、そのシーズン16ゴールを挙げ、チームはセリエA昇格へあと一歩まで迫った[1]。1991-92シーズン、ゴール数こそ8と減少したが、そのプレーはユヴェントスからの関心を引いた[1]

1992-93シーズン、子供の頃からファンであったユヴェントスFCに移籍[1]。1992年9月6日のカリアリ戦に途中交代で出場、セリエAデビューを果たしたが、この頃は控え選手扱いであったものの、3月7日のナポリ戦で初めて先発起用された[1]。このシーズンの公式戦33試合で9得点を挙げた[1]。翌1993-94シーズン、ピエルルイジ・カシラギが移籍したことで、出場時間を増やし、公式戦38試合で12得点を記録した[1]

1994-95シーズン、リーグ戦では、チームトップのジャンルカ・ヴィアリの19得点に次ぐ15得点を挙げてスクデット獲得に貢献[2]コッパ・イタリアでもパルマとの決勝第2戦で1ゴールを挙げるなど、トータル6ゴールを挙げて大会得点王を獲得して優勝を果たした。このシーズンはチーム内で最多となる年間30得点を挙げた[1][3]。また、9月27日にUEFAカップで対戦した、CSKAソフィア戦では1人で5ゴールを決めた[1][4]。1995年のバロンドールでは12位にランクインした[1]。1995-96シーズン、年間18ゴールを挙げてチーム得点王となった[5]UEFAチャンピオンズリーグ決勝のアヤックス戦では先制点を奪う活躍で優勝を果たした[6]。ユヴェントスでは160試合で69得点を挙げたが[7]、チームは売却して放出することを決めた[1]

1996年に英国史上3番目に高額な移籍金でミドルズブラに移籍[8]、開幕のリヴァプール戦でハットトリックを決めた[1][4]。チームはこのシーズンのFAカップフットボールリーグカップで決勝まで進出した[1]。個人としてはリーグ戦で16ゴールを挙げた[1]。しかし、チームが2部に降格したためチームを去った[9]。この時、トッテナムからのオファーを受けたが、マルセイユでのプレーを選んだ[5]。マルセイユでの2シーズン半で84試合に出場し、31得点を記録、1999年にはUEFAカップ決勝に進出したが、パルマに敗れて準優勝に終わった[1]

1999年12月にラツィオへ移籍[1]。ここでは控え選手としてプレーし、2シーズンで42試合に出場し、10得点を挙げるに留まったが、セリエA、コッパ・イタリア優勝を果たした[1]。そして、ダービー・カウンティ(プレミアシップ)に移籍、34試合で11得点を挙げたが、2部降格を防ぐことは出来なかった[1]ダンディースコティッシュ・プレミアリーグ)で短期間プレーした後、2004年、もう一度、故郷にして古巣であるペルージャでプレーするという、亡き父との約束を果たすため、ペルージャに加入するも、チームのセリエA残留は果たせなかった[1]。翌シーズンもチームに留まり、シーズン終了後に36歳で現役を引退した[1]

代表経歴

1995年3月25日のユーロ予選エストニア戦で初ゴールを決める代表デビューを果たし、同予選では7試合で4得点を決め、本大会出場に貢献した[10]。1996年のユーロ本大会では2試合に出場した[10]

1998年のワールドカップ直前に行われた6月2日、スウェーデン戦でも先発起用されていたがものの[10]、気管支肺炎を患い、大会への参加を辞退した[11]。代表での通算成績は、22試合8得点。

人物

  • ジャンルカ・ヴィアリは自身のアイドルであり、まだユヴェントスでチームメートになる以前にヴィアリが代表チームの試合でペルージャのレナート・クーリスタジアムに来た時、自身のアイドルであることを告げると、ヴィアリからはスパイクをプレゼントされた[7]。ヴィアリは自身にとっての兄の様な存在で、チームメートとして多くのことを学んだという[7]。また洋服の着こなしなど、様々な面でヴィアリを真似ていたという[7]
  • 独特のプレースタイルと特徴的な若白髪から「銀狐 (Silver Fox) 」と呼ばれた[12]。髪の毛は遺伝により8歳の頃から白くなった[1]
  • 得点後には、ユニフォームを被り、両手を広げるゴールパフォーマンスで知られていて、これは1993年3月7日のナポリ戦で先発してゴールを決めた時から行っていたものである[1]

代表出場記録

さらに見る 代表, 年 ...
代表出場得点
イタリア代表 199564
199684
199750
199830
199900
Total228
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タイトル

ユヴェントス

  • セリエA : 1994-95
  • コッパ・イタリア : 1994-95
  • スーペルコパイタリアーナ : 1995
  • UEFAカップ: 1992-93
  • UEFAチャンピオンズリーグ : 1995-96

ラツィオ

  • セリエA :1999-00
  • コッパ・イタリア : 1999-00
  • スーペルコパイタリアーナ : 2000

個人

  • セリエC2得点王 : 1987-88 (23ゴール)
  • コッパ・イタリア得点王 : 1994-95 (6ゴール)

脚注

外部リンク

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