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ピート・ジョンソン[1](Pete Johnson、1904年3月25日 - 1967年3月23日[2])は、アメリカ合衆国のブギウギ、ジャズ・ピアニスト。
音楽記者トニー・ラッセルは、著書『The Blues - From Robert Johnson to Robert Cray』で、「ブギウギ・トリオの他の2人(ミード・ルクス・ルイス、アルバート・アモンズ)と同様、ジョンソンは超絶技巧とメロディーの豊かさを誇り、ブギウギを楽しいものにした。バンドでやるのも好きだった。伴奏するときは歌手よりでしゃばることはなかった」と書いた[3]。
オールミュージックのスコット・ヤナウは「ジョンソンはミード・ルクス・ルイスやアルバート・アモンズとともにブギウギの三羽烏で、1930年代末に突然頭角を現し、ブギウギを流行らせた」と書いた[2]。
1904年、ミズーリ州カンザスシティで生まれる[2]。1922年にドラマーとしてキャリアを開始[3]。1926年から1938年にかけて、ピアニストとして頻繁にビッグ・ジョー・ターナーと共演した[2]。
1936年にジョン・ハモンドと出会い、ニューヨークのダンスホール「Famous Door」と契約。1938年、ターナーと共にカーネギー・ホールの「フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スウィング (From Spirituals to Swing)」コンサートに出演して「ロール・エム・ピート」を演奏。その後、ブギウギの人気が爆発した。この時期、ターナー、ミード・ルクス・ルイス、アルバート・アモンズとツアーや録音を行っている[2]。ルイス、アモンズとは、共に短編映画『Boogie-Woogie Dream』(1941年)に出演[3]。
ターナーと共作し、ターナーが歌った「ロール・エム・ピート」[4]は「最初のロックンロール・レコード」の一枚とされている。ターナーとは「Johnson and Turner Blues」も録音。1949年、両面シングル「Rocket 88 Boogie」を録音。1951年のアイク・ターナーのヒット「Rocket 88」に影響を与えた。
1940年代後半に初期のコンセプト・アルバム『House Rent Party』を録音。新築の家でジョンソンが一人で演奏しているとJ・C・ヒギンボサムやJ・C・ハードといった他のカンザスシティの演奏家たちがやってきて、それぞれのソロ演奏があったあとみんなで合奏するという趣向。ジョンソンはストライド奏法をたっぷり披露した[3]。
1950年、ニューヨークのバッファローに移住[5]。この期間に、事故で指の一部を失ったり、脳卒中によって部分的に麻痺したりするなど、いくつかの健康と経済的な問題に直面したが、その後も音楽活動を続けた。1958年にはJ.A.T.P.(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニー管弦楽団)でヨーロッパをツアーした[2][3]。最後の公演は1967年1月の「Spirituals to Swing」コンサートだった[6]。
1967年3月にバッファローのマイヤー病院にて62歳で死去[7]。
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