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イタリアのヴァイオリニスト、作曲家 (1782-1840) ウィキペディアから
ニコロ・パガニーニ(Niccolò(あるいはNicolò) Paganini, 1782年10月27日 - 1840年5月27日)はイタリアのヴァイオリニスト、作曲家である。特にヴァイオリンの名手としてヨーロッパ中で名声を獲得した。
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パガニーニがヴァイオリンを弾き始めたのは5歳の頃からで13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれ、その頃から自作の練習曲で練習していた。それら練習曲はヴァイオリン演奏の新技法、特殊技法を駆使したものと言われる。父親に習ったこと、A.コッラに半年間だけ習ったこと以外はその驚異的なテクニックを独学で身に付けた。なお、父親による指導は少しでも情熱が足りないと思われると食事も貰えないという過酷なものだった。
そのヴァイオリン演奏のあまりの上手さに、「パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」と噂されたという。そのため彼の出演する演奏会の聴衆には、本気で十字を切る者や、本当にパガニーニの足が地に着いているか確かめるため彼の足元ばかり見る者もいたという。
少年時代から病弱であったが、1820年に入ると慢性の咳など体調不良を訴え、『毒素を抜くため』に下剤を飲み始める。1823年には梅毒と診断されて水銀療法とアヘンの投与が開始された。さらに1828年頃には結核と診断され、甘汞を飲み始め、さらに下剤を飲み続けた。その後、水銀中毒が進行して次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、1834年頃についに引退する。そして1840年に水銀中毒による上気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全によりニースで死去。
一般に死因は喉頭結核もしくは喉頭癌といわれているが、主治医の診断から結核ではなかったことがはっきりとしており、記録に残る症状(歯肉炎、振戦、視野狭窄など)から、水銀中毒だったことは明らかである[2]。
前述の噂が原因で埋葬を拒否され、遺体は防腐処理を施されて各地を転々とし、改葬を繰り返した末に1876年にパルマの共同墓地にようやく安置された。
フランツ・シューベルトはパガニーニがウィーンに来た際に、家財道具を売り払ってまで高いチケットを買って(友人の分まで奢って)パガニーニの演奏を聴き(ちなみに、この時にシューベルトが聴いたといわれているのが「鐘のロンド」を持つ『ヴァイオリン協奏曲第2番』である)、「天使の声を聞いた」と感激した。金銭に関して執着しないシューベルトらしい逸話である。この台詞は正確には「アダージョでは天使の声が聞こえたよ」と言ったものである。派手な超絶技巧よりもイタリアオペラに近い音色の美しさをとらえるシューベルトの鋭い感性も覗える。
またフランツ・リストは、初恋に破れ沈んでいた20歳の時にパガニーニの演奏を聞いて、「僕はピアノのパガニーニになる!」と奮起し、超絶技巧を磨いたという逸話もある(リストは『ヴァイオリン協奏曲第4番』を聴いたといわれている)。
パガニーニは作曲家としても活躍し、数多くのヴァイオリン曲を残したが、極めて速いパッセージのダブルストップや左手のピチカート、フラジョレット奏法などどれも高度な技術を必要とする難曲として知られている。パガニーニ自身は技術が他人に知られるのを好まなかったため、生前はほとんど自作を出版せず自分で楽譜の管理をしていた。
その徹底ぶりは凄まじいもので、自らの演奏会の伴奏を担当するオーケストラにすらパート譜を配るのは演奏会の数日前(時には数時間前)で、演奏会までの数日間練習させて本番で伴奏を弾かせた後、配ったパート譜はすべて回収したというほどである。しかも、オーケストラの練習ではパガニーニ自身はソロを弾かなかったため、楽団員ですら本番に初めてパガニーニ本人の弾くソロ・パートを聞くことができたという。その背景として、パガニーニ自身が無類の“ケチ”だったと言う事の他に、この時代は、著作権などがまだ十分に確立しておらず、出版している作品ですら当たり前のように盗作が横行していた為、執拗に作品管理に執着するようになったとする説もある。
このようにパガニーニ自身が楽譜を一切外に公開しなかったことに加えて、死の直前に楽譜をほとんど焼却処分してしまった上、彼の死後に残っていた楽譜も遺族がほぼ売却したため楽譜が散逸してしまい、大部分の作品は廃絶してしまった。現在では、無伴奏のための『24の奇想曲』や6曲のヴァイオリン協奏曲(元々は全部で12曲あったといわれ、第3番から第6番が見つかったのは20世紀に入ってからである)などが残されている。現存している譜面は、彼の演奏を聴いた作曲家らが譜面に書き起こしたものがほとんどだと言われている。また、同じ理由から弟子をカミッロ・シヴォリ一人しかとらず、そのシヴォリにも自分の持つ技術を十分には伝えなかったため、演奏の流派としてはパガニーニ一代で途絶えることとなってしまった。
パガニーニは、1800年から1805年にかけて表立った活動をやめ、ギターの作品を数多く作曲している。これは、フィレンツェの女性ギター奏者を愛人としていたためといわれている。
20世紀前半の巨匠と呼ばれるヴァイオリニストでは、
などがラ・カンパネッラなどの作品を録音している。また、ウィリアム・プリムローズがヴィオラ奏者としてパガニーニ作品の録音を残している。
20世紀に「ヴァイオリニストの王」と称されたヤッシャ・ハイフェッツは、パガニーニの作品を全く演奏、録音しようとしなかった。その理由については諸説あるが、ハイフェッツ自身が明確な理由を公にしなかったので、現在もその真意は不明なままである。例外として、師であるレオポルト・アウアーによって演奏会用に編曲[5]された『24の奇想曲』の第13番、第20番、第24番と、若い頃に録音した『無窮動』の音源が現存している。
現在では『24の奇想曲』や『ヴァイオリン協奏曲第1番』、『ヴァイオリン協奏曲第2番』の「ラ・カンパネッラ」は、数多くのヴァイオリニストが録音をしている。なお、サルヴァトーレ・アッカルドが、ヴァイオリン協奏曲の第1番から第6番を始め、譜面が現存するヴァイオリンのための作品のほぼ全てを録音している。
パガニーニの演奏、楽曲はリストやシューマンなど当時の作曲家に多大な影響を与え、以後様々な作曲家がその主題によるパラフレーズや変奏曲を書いた。特に『24の奇想曲』の第24番や『ヴァイオリン協奏曲第2番』の第3楽章「鐘のロンド(ラ・カンパネッラ)」は繰り返し用いられた。パガニーニの主題を用いた他の作曲家の作品を以下に示す。
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