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ジョヴァンニ・パイジエッロ(伊: Giovanni Paisiello, 1740年5月9日 - 1816年6月5日[1])は、18世紀後半のイタリアのオペラ作曲家。セミセリア様式と呼ばれるオペラの代表的人物である。
ターラント出身。地元のイエズス会の神学校に通う。美声ゆえに多くの注意を惹き付け、ナポリの音楽学校に送られてフランチェスコ・ドゥランテに師事。1763年に音楽学校を終えると劇場のためにいくつかの幕間劇を作曲。その一つが注目を集め、イタリア各地の劇場に招かれてオペラを作曲。ボローニャの劇場に《La Pupilla》と《Il Mondo al Rovescio》を、ローマに《Il Marchese di Tidipano》を提出。
パイジエッロの名声が確固たるものになると、数年間ナポリに落ち着く。ニコロ・ピッチンニやドメニコ・チマローザ、ピエトロ・グリエルミらの成功を羨みながらも、自らも一連の成功作を生み出していく。その一つ《L'ldolo cinese》は、ナポリの聴衆に深い印象を与えた。
1772年に教会音楽の作曲に着手し、ジェンネラ・ボルボーネのためのレクイエムを完成。同年、チェチーリア・パッリーニと結婚、幸せな結婚生活を送った。1776年にエカチェリーナ2世に招かれサンクトペテルブルクの宮廷に赴き、8年間を過ごす。この間に魅力的な傑作《セヴィリアの理髪師 Il Barbiere di Siviglia》を完成させる。この人気はヨーロッパ中を席巻した。パイジェッロの《セヴィリアの理髪師》は、イタリア音楽の歴史において、一時代を画するものとなった。本作をもって、18世紀の巨匠たちが培ってきた気高い甘美さが姿を消し、新しい時代の目も眩むような超絶技巧に道を譲ったのである。
1816年(パイジエッロの没年)にジョアキーノ・ロッシーニが、パイジエッロと同じ台本に曲付けして、《アルマヴィーヴァ》の題名で新作を発表すると、舞台から非難の声が上がった。しかし、《セヴィリアの理髪師》に題名を改めると、このオペラはロッシーニの最高の作品と見做されるようになり、一方でパイジエッロのオペラは忘れ去られたのである。不思議な運命の復讐というべきか、かつてパイジエッロは、ペルゴレージの幕間劇《奥様女中 La Serva padrona》と同じ台本に曲付けをして、ペルゴレージの名声をかすめてしまったことがあった。
パイジエッロは1784年にロシアを去り、ウィーンで《Il Re Teodoro》を上演した後、ナポリのフェルディナンド4世の宮廷に出仕、《ニーナ Nina》や《La Molinara》を含む数々の名作オペラを送り出す。政体や王朝の変化の結果、人生の浮沈を味わった後、1802年にナポレオン・ボナパルトに招かれパリに行き、5年間にわたってその寵愛を得る。ルイ=ラザール・オッシュ将軍の葬儀のために作曲された葬送行進曲を、ナポレオンは溺愛した。ナポレオンはパイジエッロを非常に優遇したのに対し、ルイジ・ケルビーニやエティエンヌ=ニコラ・メユールを冷遇して顧みなかった。パイジエッロは、かつてチマローザやグリエルミ、ピッチンニに対して燃やしたような敵意を、この二人に対して向けた。
パイジエッロはテュイルリー宮殿の宮廷楽団を指揮して、1万フランの報酬を得たが、パリの聴衆から好意を得ることには完全に失敗した。歌劇《プロセルピナ Proserpine》は、パリの市民に冷たくあしらわれたのである。1803年にパイジエッロは、帰国要請を出し、困難に遭いながらも夫人の病気を口実に、帰国許可を得た。ナポリに戻るや否やパイジエッロは、ジョゼフ・ボナパルトとジョアシャン・ミュラによって以前の任務に戻されたが、すでにパイジエッロは限界上に能力を使い切っており、もはや新たな需要に尻を合わせることができなくなっていた。前途も当てにならなかった。ボナパルト家の失墜とともに、パイジエッロの幸運も地に堕ちた。1815年の夫人の死は、過酷な試練であった。パイジエッロの健康はみるみる衰え、他人の人気に対する生来の嫉妬は、不安やいら立ちの種になった。翌1816年にナポリで不遇のうちに生涯を閉じた。
ナポリのジェロラミニ図書館は、パイジエッロの興味深い手稿集を所蔵している。これは同時代の作曲家に対するパイジエッロの見方を書きとめたもので、――とりわけペルゴレージの作品に対して――なかなかきつい評論家だったことが伺われる。
パイジエッロは、知られている限り94曲の歌劇を作曲した。これらは旋律に満ち溢れており、その優美さは今なお高く評価されている。
おそらく最も有名なアリアは、《La Molinara》からの「わが心うつろになりけり Nel cor più non mi sento」であろう。ベートーヴェン、パガニーニがこれを主題に変奏曲を作曲して、不滅の存在にしたのである。
多くの歌劇の自筆譜は、ドメニコ・ドラゴネッティによって大英図書館に寄贈された。パイジエッロの教会音楽は非常に数多く、8曲のミサ曲のほかにたくさんの小曲がある。交響曲、ピアノ協奏曲、弦楽四重奏曲など51曲の器楽曲と、数々の独立した小品がある。
「セビリアの理髪師」は、今なおイタリアオペラ屈指の人気の演目であるロッシーニ作品に比べるべくもないものの、稀に上演が行われており、1970年大阪万国博に際しては指揮レナート・ファザーノ、主演セスト・ブルスカンティーニ以下全員を本場から招いて日本初演も行われた。この公演は不鮮明ながらカラー映像が残されDVD化もされている。
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