バンザイクリフ
北マリアナ諸島サイパン島最北端の岬 ウィキペディアから
バンザイクリフ(英語: Banzai Cliff)は、北マリアナ諸島サイパン島最北端の岬の通称。正式名称はプンタンサバネタ(プンタン平原)。
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地理
この地を含むサイパン島は、1920年(大正9年)まではドイツ第二帝国植民地ニューギニアの一角で、国際連盟の委任統治により、大日本帝国(現・日本国)の統治下となった。
→詳細は「ドイツ領ニューギニア § 第一次世界大戦とヴェルサイユ条約」、および「ヴェルサイユ条約 § 植民地」を参照
大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)中(日本側呼称「あ」号作戦、米国側呼称フォレージャー作戦)、現地駐留帝国陸軍(第31軍)司令部がサイパン島北部にあり、アメリカ軍の激しい戦闘(サイパンの戦い、1944年6月15日 - 7月9日)において、追い詰められた日本兵や民間人が、スーサイドクリフと同様にアメリカ兵からの投降勧告、説得に応じず、80メートル下の海に身を投じて自決した断崖(岬)である。多くの自決者が「天皇陛下万歳」や「大日本帝国万歳」と叫び、両腕を上げながら身を投じたことから、戦後この名で呼ばれるようになった。自決者の数は1万人にのぼるとも言われ[誰によって?]、海は血で真っ赤に染まり、死体の海と化した。
→詳細は「サイパンの戦い § 集団自決」、および「マリアナ沖海戦 § アメリカ軍サイパンへ侵攻」を参照
のち、サイパン島南太平洋地域の平和記念公園として整備され、慰霊碑や寺院が建立されており、崖周辺にある多数の供養塔とともに、観光地の1つとなっている。慰霊碑へ向かう道の途中には戦車が遺棄されていて、見学することができる。第二次世界大戦終結後60周年の2005年(平成17年)6月28日、皇室としては初めて、第125代天皇明仁(現・上皇)・皇后美智子(現・上皇后)夫妻がバンザイクリフを慰霊のため訪問した[2]。
かつては、英語化された音でマッピ岬(Marpi)と呼ばれた。日本統治時代の地名もマッピ(松尾)で、古い文献にもそのように記されている。プンタンサバネタ(Puntan Sabaneta)という呼称は、現地の言葉であるチャモロ語での呼称である。北マリアナ政府は、この岬を正式にプンタンサバネタに変更したが、バンザイクリフも通称として定着している。
サイパン戦の犠牲者
- 日本兵・在留日本人:55000人以上
- アメリカ兵:3500人以上
- チャモロ人:900人以上
バンザイクリフの集団自決を描いた作品
- 『サイパン島同胞臣節を全うす』- 藤田嗣治の油彩画。1945年。バンザイクリフの日本人非戦闘員の集団自決が描かれている。
脚注
関連項目
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