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ドーノワ伯爵夫人[note 1](Countess d'Aulnoy)としても知られるマリー=カトリーヌ・ル・ジュメル・ド・バルヌヴィル(Marie-Catherine Le Jumel de Barneville, Baroness d'Aulnoy )、ドーノワ男爵夫人(Baroness d'Aulnoy、1650年あるいは1651年 - 1705年1月4日)は、妖精物語で知られるフランスの作家である。彼女は自身の作品に『妖精物語(contes de fées)』と名付け、こんにちジャンル一般に使われる用語の起源となった[5]。
ドーノワ夫人、ドーノワ男爵夫人 | |
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マリー=カトリーヌ・ドーノワ | |
誕生 |
マリー=カトリーヌ・ル・ジュメル・ド・バルヌヴィル 1650年あるいは1651年 バルヌヴィル=ラ=ベルトラン |
死没 | 1705年1月4日 |
職業 | 妖精物語作家、男爵夫人 |
言語 | フランス語 |
ジャンル | 歴史、妖精物語 |
代表作 |
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配偶者 | フランシス・ド・ラ・モット、ドーノワ男爵 |
子供 | 6子 |
ウィキポータル 文学 |
ドーノワ夫人はカルヴァドスのバルヌヴィル=ラ=ベルトランで、貴族のル・ジュメル・ド・バルヌヴィル一族の一員として生まれた。彼女はマリー・ブリュノー・デ・ロージュ(Marie Bruneau des Loges)のいとこであり、フランソワ・ド・マレルブやジャン=ルイ・ゲ・ド・バルザックの友人であった[6]。1666年、彼女は、父親の取りまとめた相手で30歳年上のパリ人であり、ヴァンドーム男爵家のドーノワ男爵フランシス・ド・ラ・モットと15歳で結婚した。彼は自由主義者で、ばくち打ちとしても知られていた。1669年、ドーノワ男爵は2人の人物、おそらくドーノワ夫人の(19歳の)愛人と、再婚してガダーニュ侯爵夫人となった彼女の母の愛人に、王が課した税金に反対する発言をした反逆者として告発された[6][7]。男爵は有罪判決を受けた場合死刑になったと考えられる。彼は、法廷で自身の無実をついに証明するまでバスティーユで3年過ごし、告訴に関与した2人の男が代わりに処刑された。この告発と反訴の記録はバスティーユの記録に残っている。ガダーニュ侯爵夫人はイギリスへ逃れ、ドーノワ夫人は逮捕状が出されたにもかかわらず、窓から脱出して警官から逃れ、教会に隠れた。ドーノワ夫人は1685年に(おそらくスパイ行為に対する恩赦として)パリへ戻るまで、フランスのスパイとして働いた可能性があり、しばらくの間オランダ、スペイン、イギリスで過ごしたと考えられる[7]。母ガダーニュ侯爵夫人はマドリッドに留まり、スペイン王に年金を与えられた。ドーノワ夫人はブノワ通りの自宅でサロンを主宰したが、そこには彼女の親しい友人であるサン=テヴルモンを含む一流の貴族や王族が頻繁に訪れた。
1699年、ドーノワ夫人の友人アンジェリーク・ティケ(Angélique Ticquet)は、彼女の使用人が暴力的なアンジェリークの夫に報復したために、斬首された。彼女もまた、強いられた結婚から逃れようとしていた。その使用人はティケ評定員に吊され、銃で撃たれ、傷つけられていた。ドーノワ夫人は事件への関与が疑われたが迫害を逃れ、20年間パリの社交の場に関わらなくなった。
ドーノワ夫人は3冊の擬似回顧録と2冊の妖精物語集、3冊の「歴史的な」小説を含む12冊の本を出版した。1692年、ドーノワ夫人は『古今フランス詩人詩華集』[note 2](Recueil des plus belles pièces des poètes français)に寄稿し、自身のマドリッドとロンドンでの宮廷生活に基づいた旅行回想録を書いた。彼女の見識は盗用かでっち上げかもしれないが、これらの物語は後に彼女の最も著名な作品となった。彼女はフランス国外の歴史家と物語の記録者として高い評価を得て、Paduan Accademia dei Ricovatriのメンバーに選ばれ、歴史を司るムーサ、クレイオーの名で呼ばれた。しかしながら当時の「歴史」は、定義がより曖昧な用語だったため、彼女の記述には架空の出来事も含まれる。150年のうちに、歴史を記録する形式がより厳格になり、彼女の著述は「詐欺」と断じられた。しかしフランスとイギリスでは、その時代の批評の感情を反映し、彼女の作品は単なる気晴らしと考えられていた。彼女の仏蘭戦争をより正確に記録しようという試みは、うまくいかなかった。執筆活動によって得られた収入は3人の娘を育てるのに役立ったが、全ての作品が彼女の生前に出版されたわけではない。
彼女の最も著名な作品は『妖精物語』(Les Contes des Fée)と『妖精物語または当世風の妖精』(Contes Nouveaux, ou Les Fées à la Mode)の中で語られる妖精物語と冒険物語である。ドーノワ夫人より135年ほど後に生まれたグリム兄弟のメルヘンとは違って、彼女は自身の物語を、おそらくサロンで物語られたように、より会話的な形式で語っている。作品の多くは獣の花嫁や花婿の世界であり、ヒロインが大きな障害を乗り越えた後に愛と幸福がやって来るというものだった。こうした物語は子供向けではなく、イギリスに適応したものは、元の物語からかなり変容している。
ドーノワ夫人は6人の子を儲け、うち2人は離婚後に生まれたが、夫の姓を受け継いだ。
日本語の表題は再話[note 3] を含め翻訳の出版があるもの、論文で確認できるものに拠り、確認の取れなかったものについては翻訳せず原題を表記した。
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