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ザ・フーのアルバム ウィキペディアから
トミー (Tommy) は、イングランドのロック・バンド、ザ・フーが1969年5月に発表した通算4枚目のスタジオ・アルバム。三重苦の少年トミーを主人公にした架空の物語で、ロックンロールとオペラを融合させた「ロック・オペラ」を確立した作品であると広く認識されている。全英2位[1]、全米4位[2]。「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・ベストアルバム500」において、96位にランクイン。
ロックンロールとオペラを融合させた画期的な作品であり、ザ・フーのキャリアにおいても重要な位置に占める作品である。ロックオペラを確立したアルバムでもあり、また、その後の世界に多くの影響を与えた。このアルバムのヒットにより、ザ・フーはシングルヒットを量産するヒットソングバンドのイメージから脱却し、アルバムアーティストへ転換することに成功した[3]。
三重苦の少年トミーを主人公にした物語は若者、ほぼ全曲の作者であるピート・タウンゼント自身の孤独や苦悩を反映させたスピリチュアルなもので、タウンゼントが傾倒しているインド人導師ミハー・ババ[4][注釈 1]の影響が初めて作品に顕著に現れたものである[5]。本作はババに捧げられ、彼の名が「アバター」としてクレジットされている。
オペラの雰囲気を高めるために、主人公であるトミーの心情を歌う曲ではロジャー・ダルトリーが、他の人物や語り部の役割の曲ではタウンゼントが、それぞれリードボーカルを担当している。ただし、ダルトリーが「クリスマス」、「ピンボールの魔術師」、「鏡をこわせ」等トミー以外の人物の曲を歌い、逆にタウンゼントが三重苦から解放されたトミーの喜びを表した「センセイション」を歌うなど、例外もある。「従兄弟のケヴィン」と「叔父のアーニー」では、作者のジョン・エントウィッスルがリードボーカルをとっている。
アルバムが発表される前の1969年3月に「ピンボールの魔術師」が先行シングルとしてリリースされ[6]、全英4位の大ヒットとなった。また「シー・ミー・フィール・ミー」[7]や「僕は自由だ」(アメリカのみ)[8]がシングルカットされた。この他、1970年11月にはアルバムから4曲をカットしたEP盤[9]もリリースされたが、当時はすでにEPというフォーマット自体が古くなっており、こちらは話題にはならなかった[10]。
LP盤のジャケットのデザインはタウンゼントにババの事を知る機会を与えたイラストレーターのマイケル・マッキナニー(Michael McInnerney)[11][12]による。ジャケットは3面開きになっており、歌詞カードも封入され、ザ・フーのアルバムの中で最も豪華な作りになっている[13]。オリジナルのジャケットにはメンバーの顔が写されているが、リイシュー盤のジャケットには写っていないもの[注釈 2]もある。
アルバム発表に伴って行なわれた1969年5月から1970年の末にかけてのツアーではライブの中盤にほぼ全曲が演奏され[14]、その様子は『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』『ワイト島ライヴ1970』といった映像作品で観ることができる。その後も、2023年現在に至るまで、様々な形で演奏されてきた。
また本作はロック・ミュージックに留まらず、広く芸術界の注目を集め、バレエ[15]、舞台[16]、オーケストラ、映画、ミュージカルと、様々なメディアによって取り上げられてきた。
本作のレコーディングが始まったのは1968年9月19日であったが、当時のザ・フーの財政状況はかなり逼迫しており、ダルトリーも「アルバム自体出せるか不安だった」と後に語るほどであった[17]。そのため、彼等は月曜から木曜にかけてレコーディングを行ない、週末は資金捻出のために散発的にステージをこなした。それでもなお、作品のコンセプトが定まらなかった事もあり、レコーディングは本来の発売予定日だったクリスマスを過ぎ、結局半年間以上に及んだ。
プロデューサーとしてクレジットされているキット・ランバートは、ザ・フーの当時のマネージャーである。彼は元々は音楽プロデューサーではなかったが、クラシック音楽の有名な作曲家であるコンスタント・ランバートを父に持ち、オペラへの造詣も深く、様々なアイデアを提供した。ランバートは当初オーケストラの起用を望んだが、サウンド面での指揮はタウンゼントが執っており、ライブで再現が出来るものでなくてはならないと考えたメンバーもランバートの希望を拒否した。彼等は必要最低限の楽器のみで、交響楽団にも迫るサウンドを目指して製作を進めた。収録曲のほぼ全てはタウンゼントの作だが、トミーが性的虐待やいじめに遭う曲は「自分には書けそうもないから」とタウンゼントに託されたエントウィッスルの作である[18]。
メンバーは更なるオーバーダビングを望んでいたが、1969年5月に開始されることが決まっていた新作アルバムのプロモーションのためのコンサート・ツアーが目前に迫ってきたので、レコーディングは1969年3月7日に終了された。制作には総額約36000ポンドが費やされた。レコーディング中は「Deaf,Dumb And Blind Boy」、「Amazing Journey」、「Brain Opera」といった仮タイトルがつけられていたが、最終的に主人公の名前がタイトルになった[注釈 3][19]。
アルバムは2枚組の大作であったが、全英2位、全米4位を記録する大ヒットとなり、この成功によってザ・フーは解散の危機を乗り越えた。
本作のオリジナルのマスター・テープは、後にランバートが破棄してしまい現存していないという噂があったが、実際にはレコード会社の倉庫の中に無傷のまま保管されていた。2003年以降の本作のリイシュー版は、このオリジナル・マスターから起こされた音源を使用している。[20]
本作の歌詞は散文的で抽象性が高く難解であり、発表後にタウンゼントが行なった解説でもあらすじは一貫しなかった。ケン・ラッセル監督の映画版(1975年)やミュージカル版(1992年)で脚本が補強された結果、具体的で整合的な理解が可能となった箇所もある[注釈 4]。
以下のあらすじは、英語版の記述を元にする。
1984年に初CD化。この時は2枚組でリリースされた。1990年版より1枚組となる。1996年にはリマスター、リミックス版がリリースされる。
2003年発表の「デラックス・エディション」には、アウトテイクバージョンやデモバージョンを追加収録、さらにピート自身のリミックスによる5.1chサラウンド音声も含めたCD/SACDのハイブリッド盤でリリースされた。ステレオ音声は先述の盤とは異なるオリジナル・マスター音源が使用され、飛躍的な音質向上がなされた[21]。また同時にDVDオーディオ盤もリリースされている。
2013年には、アウトテイク集のほか、未発表の1969年のライブを収録したCD3枚組にブルーレイを追加した「スーパー・デラックス・エディション」がリリースされた。[22]
作詞作曲は、特記なき場合全てピート・タウンゼントによる。
※13曲目以降はCD層にのみ収録
本作の発表に従って1969年5月にスタートした「トミー・ツアー」では、全24曲の収録曲のうち20曲がノンストップで演奏された[27][14][注釈 7]。リードボーカルの分担はレコードとほぼ同じであったが、レコードではタウンゼントが歌った「1921」はダルトリーがリードを取り、またタウンゼントやエントウィッスルが単独で歌った楽曲は、コンサートではダルトリーもユニゾンで歌った。
彼等はツアー期間中、1969年8月15日から17日までの3日間(正確には8月15日午後から18日午前にかけての4日間)、ニューヨーク州サリバン郡ベセルで40万人もの観客を集めて開かれたウッドストック・フェスティバルのステージに17日の夜明け前に登場して、ツアーと同じプログラムで演奏した[注釈 8][28][29]。この時の「シー・ミー・フィール・ミー」の場面は、日本でも上映された映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』(1970年)に収録され[注釈 9]、「スパークス」「ピンボールの魔術師」「シー・ミー・フィール・ミー」は、彼等のドキュメンタリー映画『キッズ・アー・オールライト』(1979年)に収録された[注釈 10]。
「トミー・ツアー」は1970年12月で終了。1970年8月の第三回ワイト島音楽祭に出演した[30]時の模様を収めた『ワイト島ライヴ1970』が、1996年にCDとVHSでリリースされた[注釈 11]。また、1970年2月14日のリーズ大学での公演[31]のほぼ全編が、2001年にリリースされた『ライブ・アット・リーズ・デラックス・エディション』に収録された。さらに1969年12月14日のロンドン公演[32]の模様が、DVDThe Who at Kilburn: 1977(2008年)に含まれた。
「シー・ミー・フィール・ミー」、「ピンボールの魔術師」や「すてきな旅行」といった曲は、1978年のムーンの死去に伴うケニー・ジョーンズの加入を経て1983年の解散宣言に至るまで、ザ・フーのコンサートにおける重要なレパートリーとして演奏され続けた[33]。また1975年、アルバム『ザ・フー・バイ・ナンバーズ』の発表に伴って同年10月初めから翌1976年10月末までヨーロッパと北アメリカで行なわれたツアー[注釈 12]では、「すてきな旅行」から始まる短縮版[注釈 13]がノンストップで演奏された[34]。この時は、1975年3月に公開された映画『トミー』(下記参照)で叔父のアーニーを演じたムーンが、「フィドル・アバウト」と「トミーのホリディ・キャンプ」のリードボーカルを担当した。この短縮版は、アメリカ・ツアーの初日に当たる1975年11月20日のヒューストン公演[35]の映像を収録したLive In Texas 75[36] (2012年)で視聴できる。
1989年、タウンゼントは自分のライブ活動の為に10人以上のミュージシャンを集めて結成したディープ・エンドを引き連れて、ダルトリーとエントウィッスルに合流。彼等はザ・フーの名義で、1989年6月21日から9月3日までアメリカ合衆国とカナダ、10月6日から11月2日までイングランドで、結成25周年を記念したThe Kids Are Alright Tourを行なった[37]。幾つかのコンサートでは『トミー』の発表20周年を記念して、「トミー・ツアー」では演奏されなかった「従兄弟のケヴィン」や「センセイション」も含めたほぼ全曲を演奏した[38]。タウンゼント達とディープ・エンド、さらに難聴と耳鳴に悩まされていたタウンゼントの為に招聘されたギタリストのスティーブ・ボルトンを合わせた総勢15名の大編成によるシンフォニックな再演の模様は、CD『ジョイン・トゥゲザー』(1990年)と、VHSThe Who – Live - Featuring The Rock Opera Tommy[39][注釈 14](1989年)に収録された。
1972年11月、ロンドン交響楽団とイギリス室内合唱団(English Chamber Choir)によるアルバム『トミー』がリリースされる。ムーン以外のザ・フーのメンバー、ロッド・スチュワート、リンゴ・スター、スティーヴ・ウィンウッド等の豪華ゲストが独唱者として参加した[40][注釈 15]。同年12月にはロンドンのレインボウ・シアターでコンサートが行われた[41][注釈 16]。このオーケストラ版が、一度は暗礁に乗りかかった映画化を前進させるきっかけとなった[42][5]。
『トミー』の映画化は、レコーディングを開始した1968年当時から構想にあった[20]。映画会社から十分な出資を得ることができず、映画化の話は途中で保留となるものの、オーケストラ版のレコードやコンサートが評判を呼び、1973年にようやくケン・ラッセルの監督による映画化が決定し[42]、1975年に公開された。
映画にはラッセルの嗜好が強く出ており、導師ババの教えに影響を受けた本作が持つ精神性が損なわれてしまい、ザ・フーのファンから批判が起こり、タウンゼントも深く失望したという。しかし、これまで内容を把握するのが難しかったストーリーを初めて明確化したという点で、映画が制作された意義は大きい[43]。本作が殆んど話題にならなかった日本[注釈 17]でも、この映画はもっぱらエルトン・ジョンやエリック・クラプトンが出演しているという理由で多少の話題を呼んだ。
映画ではストーリーの改変が幾つかなされ、数曲の歌詞が書き換えられ、新曲が追加された。主演を務めたダルトリーは、その演技を高く評価され、その後本格的に俳優業をこなすようになる。
カリフォルニア州サンディエゴのラ・ホヤ・プレイハウス(La Jolla Playhouse)の芸術監督だったデス・マカナフ(Des McAnuff)[44]がミュージカル化した。1993年4月、ニューヨークのブロードウェイ・ミュージカルで上演が開始。本作や映画版では示されなかった結末を明らかにしたが、このストーリーについては古くからのファンの間では賛否両論あった。だが一般的には高い評価を受け、トニー賞5部門を受賞する。1996年には、オリジナル、映画、ミュージカルの音源や映像をまとめたCD-ROMも発売された[45]。
ミュージカル版では、以下の点がオリジナルと異なる[23]。
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