デルベント
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デルベント(Derbent、ロシア語: Дербе́нт、アゼルバイジャン語: Дәрбәнд/Dərbənd、レズギ語: Кьвевар、タバサラン語:Деребенд)は、ロシア・ダゲスタン共和国にある都市である。ロシア最南端の都市であり、ダゲスタン共和国第2の都市でもある。人口は101,031人(2002年国勢調査)である。アゼルバイジャン人が最も多く、レズギ人、タバサラン人がそれに続く。
アレクサンドロスの門(en)の伝説が残る都市であり、デルベントはロシア最古の都市と言われる。2003年にUNESCOの世界遺産に「デルベントのシタデル、古代都市及び要塞建築物群」の名前で登録された。
現在のデルベントの町はカスピ海の西岸に位置し、タバサラン山頂からの傾斜面に位置する。デルベントは交通の便がよく、港湾施設を持ち、アゼルバイジャンの首都であるバクーとは鉄道とロストフ・ナ・ドヌ道路で結ばれている。
デルベントの経済の中心は、食品、織物、漁業、木工品などが挙げられる。また、ロシアにおけるブランデー生産の中心でもある。
気象
デルベントの気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 15.3 (59.5) |
26.6 (79.9) |
28.3 (82.9) |
34.2 (93.6) |
30.1 (86.2) |
34.6 (94.3) |
35.8 (96.4) |
38.8 (101.8) |
33.0 (91.4) |
28.0 (82.4) |
21.9 (71.4) |
27.6 (81.7) |
38.8 (101.8) |
平均最高気温 °C (°F) | 5.5 (41.9) |
5.3 (41.5) |
8.2 (46.8) |
14.3 (57.7) |
20.3 (68.5) |
26.1 (79) |
29.1 (84.4) |
28.9 (84) |
24.2 (75.6) |
18.2 (64.8) |
11.9 (53.4) |
7.5 (45.5) |
16.6 (61.9) |
日平均気温 °C (°F) | 3.1 (37.6) |
2.8 (37) |
5.6 (42.1) |
11.0 (51.8) |
16.7 (62.1) |
22.3 (72.1) |
25.3 (77.5) |
25.2 (77.4) |
20.7 (69.3) |
15.0 (59) |
9.3 (48.7) |
5.0 (41) |
13.5 (56.3) |
平均最低気温 °C (°F) | 0.7 (33.3) |
0.4 (32.7) |
3.0 (37.4) |
7.7 (45.9) |
13.1 (55.6) |
18.4 (65.1) |
21.6 (70.9) |
21.4 (70.5) |
17.2 (63) |
11.8 (53.2) |
6.6 (43.9) |
2.6 (36.7) |
10.4 (50.7) |
最低気温記録 °C (°F) | −12.5 (9.5) |
−17.9 (−0.2) |
−9.0 (15.8) |
−3.1 (26.4) |
4.2 (39.6) |
11.0 (51.8) |
12.9 (55.2) |
10.7 (51.3) |
5.1 (41.2) |
0.4 (32.7) |
−8.3 (17.1) |
−12.1 (10.2) |
−17.9 (−0.2) |
降水量 mm (inch) | 26.2 (1.031) |
39.1 (1.539) |
24.5 (0.965) |
19.7 (0.776) |
24.4 (0.961) |
16.1 (0.634) |
22.5 (0.886) |
26.2 (1.031) |
50.4 (1.984) |
56.3 (2.217) |
48.8 (1.921) |
44.5 (1.752) |
398.7 (15.697) |
出典:Погода Дербент |
デルベントはコーカサス地方において戦略的に重要な場所に位置している。カスピ海とコーカサスの山々との間では、幅が3キロメートルしかない。
歴史的にデルベントは、ユーラシア草原と中東を結ぶ交通の要衝であったため、様々な民族の衝突の舞台となってきた。
デルベントにおける最初の住居は、紀元前8世紀に遡る。紀元前6世紀には、ペルシャの王によって支配されていた。紀元前4世紀までには、カフカス・アルバニア人(en:Caucasian Albania)が建国した国の首都として機能していた。現在のデルベントの名前の由来はペルシャ語の「閉じられた門」に由来する。5世紀の終わりかあるいは6世紀の始まりには使用されるようになっており、この頃は、サーサーン朝の皇帝カワード1世によって統治された時代であった。
カワード1世の子供であるホスロー1世の時代に、デルベントの北を臨む監視塔を備えた高さ20メートルの城壁が建設された。アルメニア人の7世紀の歴史家であるモヴセス・カガンカトヴァツィ(Movses Kaghankatvatsi)が叙述した年代記にも、驚嘆の言葉を添えての記述がなされている。ホスローの建設の結果、デルベントは、サーサーン朝の強固な要塞、港として機能した。5世紀から6世紀の間には、デルベントは、カフカス地方におけるキリスト教布教の拠点となった。
627年から629年の第三次ペルソ・テュルク戦争(サーサーン朝と西突厥の間で起きた戦争)において、デルベントは一旦、西突厥の支配下に置かれることとなったが、その後、ペルシャによって再度、統治されることとなった。654年には、アラブ人勢力の支配下に置かれることとなり、デルベントは東カフカス地方の行政の中心になるとともに、この地方にもイスラームが浸透することとなった。戦略上の地位のために、デルベントはシルク・ロードの北へつながる支線の出発地点となり、後にはアラブ人とハザールの間で争われることとなった(アラブ・ハザール戦争)。
アッバース朝の第8代カリフであるハールーン・アッ=ラシードは、デルベントに居住したこともあり、デルベントは、芸術と商業の中心となり、評判となった。アラブ人の歴史家の叙述によると、9世紀にはカフカス地方では最大の5万人の人口を誇る都市になったとある。カリフ制度が崩壊すると、デルベントはイスラームの首長国となり、サリル(en、現在のダゲスタン共和国に5世紀から12世紀の間存在したキリスト教国家)と争うこととなる。デルベントの首長国は、1239年のモンゴル帝国による侵攻まで繁栄した。
14世紀になると、デルベントはティムールの軍隊によって征服された。1437年には、ペルシャのシルヴァンシャー朝(en)の支配下に入った。16世紀にはサファヴィー朝とオスマン帝国との間の戦場となり、アッバース1世の時代には、トルコ軍に大きな打撃を与えたことで、デルベントはサファヴィー朝の支配下に入った。
1722年には、ロシア帝国皇帝ピョートル1世とペルシャの間で第1次ロシア・ペルシャ戦争が勃発、デルベントはロシア帝国の支配下に入ることとなったが、1736年にはナーディル・シャーの手によって再びペルシャの支配下に入った。1747年にはデルベント藩王国が創設されその首都となった。第2次ロシア・ペルシャ戦争(en)において、デルベントはヴァレリアン・ツボフ(en)が指揮するロシア軍の砲撃を受けた結果、1813年のゴレスターン条約において、ロシアとペルシャの間で平和条約が結ばれ、以後デルベントはロシア帝国に所属することとなった。
デルベントに残る城壁と監視塔の多くが、当時の姿を残している。6世紀から残る二重の城壁の長さは約40キロメートルに及び300から400メートルの距離を置いて、平行に建設された。城壁に囲まれた約45,000平方メートルの範囲が世界遺産に登録され、6世紀に建設されたキリスト教のバジリカ、8世紀に建設されたモスク、15世紀に建設されたマドラサ、19世紀に建設されたアルメニア正教の教会が存在する。
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
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