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ティト・プエンテ(Tito Puente、本名:エルネスト・アントニオ・プエンテ・ジュニア、1923年4月20日 - 2000年5月31日)は、アメリカ・ニューヨーク出身のラテン音楽・ミュージシャン。「マンボの王様」「ラテンの王様」[1]とも呼ばれ、ティンバレス、ヴィブラフォン、キーボードなど複数の楽器を起用に演奏した。また、作曲家、編曲家、バンドリーダーとしても足跡を残した。
1940年代から活躍しペレス・プラードらとともに、1950年代マンボ・ブームの立役者の一人でもある。プレイヤーおよびバンドリーダーとして、後のラテンジャズやサルサの発展にも寄与し、自らのバンドから多くの後進を輩出した功績もあった。
スペイン語では息子のことを「-ito(―ィート)」と呼び、プエンテは「エルネスティート」の「ティート」から「ティト」の愛称で呼ばれるようになった。
プエルトリカンの両親を持つ。ニューヨーク市マンハッタン北東部のヒスパニック居住区(スパニッシュ・ハーレム)で少年時代を過ごした。13歳の時、プエンテはラモン・オリベーロの楽団に加入しデビューする。マチート、ホセ・クルベーロ、ノロ・モラレスの楽団に参加している。1948年に自己のグループ「ピカデリー・ボーイズ」(プエンテ楽団の前身)を結成。デビューから1950年代初めのプエンテ楽団にはエディ・パルミエリの兄、チャーリー・パルミエリや、マニー・オケンドが参加している。ティンバレスは元々、リズムを支える地味な楽器だったが、プエンテはそれを前面に出すことでラテン音楽の主役楽器に押し上げた。
プエンテの代表曲である「Oye Como Va」(邦題:僕のリズムを聞いとくれ)は、ラテンロック・バンド、サンタナ[2][3]にカバーされ、ラテン世界以外にも知られるようになった。プエンテはライブで「サンタナの曲をやってくれと言われるんだ」とジョークを飛ばし、観客を笑わせていた。
以降、生涯現役として精力的な演奏活動を続け、一時的な人気の低迷はあったものの、死の直前まで音楽活動を続け、100枚を超えるリーダー・アルバムを残した。
CTIオールスターズ(ディジー・ガレスピーほか)
ヒルトン・ルイス
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