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チョン・キョンファ(朝鮮語: 정경화、漢字表記:鄭 京和、欧文表記:Kyung-Wha Chung[1]、1948年[2]3月26日[3][4] )は韓国のヴァイオリニスト。日本語表記は、チョン・ギョンファでも可。
韓国のソウルに生まれる[5]。7人きょうだいの4番目の子(三女)で、鄭の姉(次女)のチョン・ミョンファ(en)(鄭 明和)はチェリスト、弟(三男)のチョン・ミョンフン(鄭 明勲)は指揮者・ピアニスト[2]。鄭の父は戦前に日本の明治大学法学部に留学し[6]、韓国で公務員をしていた[7][8]。鄭の母は、梨花女子専門学校を卒業後、1939年から日本の「栄養と料理学園」に留学し[9]、結婚して韓国に戻った後は高校教師をしていたが[10]、夫が公務員を辞めた後は、移り住む先々で韓国食堂を営んで家計を支えた[11]。
鄭は、2歳を過ぎた頃から多くの歌を正確な音程とリズムで歌い、ラジオの生放送に出演して7曲を1ヶ所も間違えずに歌った。4歳の時にピアノを習い始めた。[12]ピアノはヤマハ製だった[13]。鄭はピアノにはあまり興味を示さず[14]、姉のミョンファ(1944年生まれ、鄭より4歳上[2])が小学生になってヴァイオリンを習い始めた時に、鄭も一緒にヴァイオリンを習い始めた[15]。
鄭は、ヴァイオリンのレッスンを2回受けただけで、小学校の入学式で子供達が歌う歌を弾けるようになり、ヴァイオリンを始めて8ヶ月目でコンクールに出て、3年間習い続けた子供を抑えて入賞した。小学校5年生で梨花女子高校のコンクールでメンデルスゾーンの曲を弾いて特賞を受け、「少年少女の夕べ」で、ソウル市交響楽団と協演した。[15]
鄭は、1960年に、文化使節団の一員として日本を訪れ、伝手を辿って、日本の著名な音楽家や批評家の前で演奏する機会を得た。音楽評論家の牛山充は
と評した。牛山の評は、日本の音楽雑誌「音楽の友」に3ページにわたって掲載された。[16]
母と、既にアメリカ留学を果たしていた兄2人の尽力により、チョンは12歳でジュリアード音楽院へ留学し[17]、イヴァン・ガラミアンに師事した[18]。
1967年レーヴェントリット国際コンクールへ出場し、同窓のピンカス・ズーカーマンと同時優勝となる[19]。
レーヴェントリット国際コンクールで優勝したチョンにはアメリカの各オーケストラから出演依頼が殺到した[20]。しかし、師のガラミアンの
というアドバイスに従って、鄭は演奏活動をセーブして[20]、スイスに住んでいたヨーゼフ・シゲティに師事した[21]。
シゲティに師事していた鄭は、ロンドン交響楽団の常任指揮者をしていたアンドレ・プレヴィンから、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで1970年に開かれる慈善ガラ・コンサートへの出演の誘いを受けた。鄭は、この演奏会で、チャイコフスキーの協奏曲を弾き、慈善演奏会の評は載せないことが多いイギリスの新聞から
といった賛辞を受け、英デッカ・レコードと録音契約を結び、年に100回以上の演奏会を行うトップ・ヴァイオリニストとなった[23]。
鄭は、英デッカに多くの録音を行った後に、1988年に英EMIに移籍して[1][注釈 1]、2011年現在に至る。
私生活では、マルタ・アルゲリッチとシャルル・デュトワが婚姻関係にあった時期に、デュトワと不倫関係にあった。[24]1984年にイギリス人の実業家と結婚。2人の息子の出産を機に一時的に活動を休止する[25]。2005年より指のケガにより長期療養したのち、2010年に復帰した[26][27]。2011年湖巌賞芸術部門受賞[28]。
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