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タツィオ・ジョルジョ・ヌヴォラーリ(Tazio Giorgio Nuvolari, 1892年11月16日 - 1953年8月11日)は、イタリア出身のレーサー。故郷マントヴァにちなみ、「空飛ぶマントヴァ人」(Il Mantovano Volente - Flying Mantovan )の異名をとった名ドライバーである。
タツィオ・ヌヴォラーリ Tazio Nuvolari | |||||||
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ベルグラードGPでのヌヴォラーリ (1939年) | |||||||
基本情報 | |||||||
国籍 | イタリア | ||||||
生年月日 |
1892年11月16日 タツィオ・ジョルジョ・ヌヴォラーリ Tazio Giorgio Nuvolari | ||||||
出身地 |
イタリア王国 ロンバルディア州カステル・ダーリオ | ||||||
死没日 | 1953年8月11日(60歳没) | ||||||
死没地 |
イタリア ロンバルディア州マントヴァ | ||||||
基本情報 | |||||||
ヨーロピアン選手権での経歴 | |||||||
所属 |
アルファロメオ フェラーリ アウトウニオン | ||||||
活動時期 | 1931-1932,1935-1939 | ||||||
出走回数 | 26 | ||||||
優勝回数 | 4 | ||||||
ポールポジション | 0 | ||||||
ファステストラップ | 4 | ||||||
チャンプカーでの経歴 | |||||||
2年の間2レース出場 | |||||||
最高位 | 5位 (1936) (英語版) | ||||||
初戦 | 1936年ヴァンダービルト杯 (英語版) (ウエストバリー) (英語版) | ||||||
最終戦 | 1937年ヴァンダービルト杯 (英語版) (ウエストバリー) (英語版) | ||||||
初勝利 | 1936年ヴァンダービルト杯 (英語版) (ウエストバリー) (英語版) | ||||||
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ル・マン24時間での経歴 | |||||||
年 | 1933 | ||||||
チーム | ソマー(英語版) | ||||||
最高位 | 1位 (1933) | ||||||
クラス優勝 | 1 (1933) |
獲得した主要タイトルは、1925年度モーターサイクル350ccクラス・ヨーロッパチャンピオン、1932年度ヨーロッパ・ドライバーズ選手権チャンピオン。
1892年、マントヴァ県のカステル・ダーリオに生まれる。父親のアルトゥーロとおじのジュゼッペはともにバイクレーサーで、特にジュゼッペはイタリア国内選手権のチャンピオンでもあった。1904年にはブレシアのサーキットで初めて4輪レースを観戦している。こうした環境から、ヌヴォラーリは幼少期からモータースポーツを志すようになる。
1915年にバイクレースのライセンスを取得するが、折しも第一次世界大戦の最中であったため、陸軍に徴兵される。復員後から再びバイクに乗り、1920年に初めてバイクレースに参加、翌1921年には初の4輪レースも経験し、いきなり2位に入る健闘を見せた。バイクレースで勝利を重ねる中、1924年に行われた4輪レースで盟友エンツォ・フェラーリと邂逅。1925年からはビアンキ・350を駆って2輪のイタリアグランプリで3連覇するなどビッグレースでの勝利を重ね、イタリアでは「バイクレースのチャンピオン」として一躍有名人となった。
1927年にブガッティ・タイプ35を購入し、4輪レーシングチームであるスクーデリア・ヌヴォラーリを設立、本格的に4輪へ転向する。しかし、1929年に資金不足によりチームは解体。このとき、ドライバーのひとりだったアキーレ・ヴァルツィと喧嘩別れしてしまい、このことが1935年ドイツグランプリの伝説に少なからず影響を与える。
1930年にアルファロメオのワークスチームであるアルファ・コルセに加入。1933年にアルファロメオがレーシングチームを手放しスクーデリア・フェラーリが結成されると、ヌヴォラーリは引き続きドライバーとして在籍した。アルファロメオ製のレーシングカーを駆り、タルガ・フローリオ、ミッレミリア、コッパ・チアーノなどの国内メジャーレースや、各国のグランプリレース、ル・マン24時間レースなどで多くの勝利を挙げ、国民的人気ドライバーとなった。しかし、ヌヴォラーリはアルファロメオのマシンの性能に不満を持っており、1935年にはアウトウニオンに加入するために一度チームを去ったこともあった。
1937年は新車アルファロメオ・12Cの信頼性の低さに失望し、ポー・グランプリでの出火で火傷を負ったことによって不満は爆発。ヌヴォラーリは引退を表明しアメリカで休暇を過ごすようになる。そこへエースドライバーを求めるアウトウニオンがコンタクトを取り、ヌヴォラーリはこれを了承。引退を撤回してレースに復帰し、1938年のイタリアグランプリを含む3度の優勝を飾った。1939年のベオグラードグランプリでの勝利は、第二次世界大戦勃発前のヨーロッパにおける最後のグランプリレースであり、アウトウニオンにとっては最後のレース、および最後の勝利となった。
ヌヴォラーリの走りは勇猛果敢で、常に全力疾走でサーキットを駆け抜けた。特にフェラーリ時代は性能の劣るアルファロメオ製マシンにも悩まされたが、常に勝負を諦めない姿勢や、性能差をひっくり返して勝ってしまう実力は多くの人々を感動させ、イタリア国民はもちろん国外にも多数のファンがいた。マシンの性能を上回るタイムを叩き出すドライビングテクニックは神懸り的とも悪魔的とも評され、性能の劣るマシンや悪路など困難な条件であるほど冴え渡った。
風貌も独特で、験担ぎに黄色のシャツと、詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオから贈られた金色の亀のブローチを身につけてレースに臨んだ。パワーアシストがなく大柄なドライバーが多かった時代にあって身長は162cmとかなり小柄だった。無骨な顔つきは「馬面」もしくは「皮面」と呼ばれた。エンツォ・フェラーリやヴィットリオ・ヤーノなど、実際に走りを見た多くの人々がヌヴォラーリこそ史上最高のレーシングドライバーであると確信し、後年も度々その名を挙げてドライバーの理想像を語っていた。
ヌヴォラーリが記録した勝利の中でも、1935年にニュルブルクリンクで行われたドイツグランプリでの勝利は、モータースポーツ史に残る快挙として語られている。当時のレース界はファシズム国家の国威発揚に利用されており、とりわけドイツは自国の工業技術の優秀さを誇示するため、メルセデス・ベンツとアウトウニオンのワークスチームを強力に支援していた。
イタリアもムッソリーニ政権の威信を賭けアルファロメオの正規チームスクーデリア・フェラーリが対抗したが、名車P3をもってしてもドイツ勢にまったく歯が立たず、連敗を喫していた。
後に「メルセデスの年」と呼ばれる1935年、ヌヴォラーリはアルファロメオ製のマシンの性能の低さに不満を持っており、アウトウニオンに加入するためにフェラーリを辞めた。しかし、アウトウニオンにはヌヴォラーリのライバルだったアキーレ・ヴァルツィがおり、彼がヌヴォラーリの加入を拒んだためアウトウニオン入りは立ち消えとなった。エンツォ・フェラーリは一度チームを去ったヌヴォラーリに不満を持っており再加入を拒んだが、ムッソリーニがエンツォを説得しヌヴォラーリは再びフェラーリでレースに出ることとなった。
このとき、フェラーリのマシンはアルファロメオ・タイプB(3.3L直列8気筒スーパーチャージドエンジン、330馬力)で、370馬力以上のハイパワーエンジンを搭載したメルセデス・ベンツ・W25やアウトウニオン・タイプBらの優勝候補と比べると相当な性能差があった。このレース以前のヨーロッパ選手権はメルセデスが3連勝しており、その他にも多数の勝利を重ねていた。
レース決勝当日の7月28日、雨のニュルブルクリンクに30万人ものドイツ人観衆が集まった。投票によって決定されるスターティンググリッドでは、ヌヴォラーリは2番手を獲得。スタートは失敗したものの、雨で濡れた路面に苦戦するドライバーを尻目に、10周目にはレースをリードしていた。
レース中盤、トップでピットインした際に燃料ポンプの破損によって2分以上ロスしてしまう。6位でピットアウトしたヌヴォラーリは猛烈なペースアップを開始し、2分以上あったトップとの差を最終周には35秒差まで詰める。これに焦ったトップのマンフレート・フォン・ブラウヒッチは無理なペースアップを図るも、タイヤをバーストさせてずるずると後退。ついにヌヴォラーリが大逆転勝利を達成した。ノントラブルで走りきった2位のハンス・スタックにさえ2分以上の大差がついており、いかに驚異的なハイペースで走行していたかがわかる。
衝撃的なレースに大観衆は静まり返ったが、やがて英雄の勝利を讃える拍手がサーキットに広がった。レースを観戦していたナチス高官はこの結果に激怒したという。大会役員は表彰台でかける国歌のレコードを自国のものしか用意しておらず、ヌヴォラーリが持参していたレコードでイタリア国歌が流れることになった。
この逆転劇は、1957年のF1ドイツグランプリでのファン・マヌエル・ファンジオの勝利とともに、ニュルブルクリンクの名勝負として語られている。
ただし、数多い伝説の中には、ヌヴォラーリの走りに興奮したイタリアのマスコミが誇張して伝えたものもある。1930年ミッレミリアの真相として、夜明け間近でヘッドライトが必要なかったとも言われる。
晩年は健康状態が悪化し、正式な引退は表明しなかったものの、1950年4月以降、レースに参加していない状態だった。1952年には、脳梗塞を起こし、一命は取り留めたものの片麻痺状態となった。そして1年後の1953年8月、再び脳梗塞を起こし死去。60歳だった。
葬儀には25000人(55000人とも)以上が参加し、その葬列が数キロに及んだとも言われる。またファン・マヌエル・ファンジオ、アルベルト・アスカーリ、ルイージ・ヴィッロレージが護衛車に同乗した。自身は黄色いセーターに茶色の革ベスト、そして青いズボンという、レースの際に着用していたスタイルで埋葬された。
ヌヴォラーリの死後、その功績を讃えてミッレミリアの走行ルートが生地マントヴァを通過するよう変更された。クレモナを出発しマントヴァを経て最終地点のブレシアに到着するこの区間で最速タイムを記録したドライバーには、グラン・プレミオ・ヌヴォラーリ(Gran Premio Nuvolari )が授与された。この賞はミッレミリアが廃止される1957年まで4年間続いた。
1991年より、グラン・プレミオ・ヌヴォラーリはヒストリックカーレースとして復活した。マントヴァをスタート/ゴール地点としてヴィアレッジョ、リミニなどの都市を巡るルートで行われている。
年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | EDC | ポイント |
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1931年 | SA・アルファロメオ | アルファロメオ・Type A | アルファロメオ 2x 3.5 L6 | ITA 1/Ret |
5位 | 13 | ||||||
アルファロメオ・Monza | アルファロメオ 2.3 L8 | FRA 11 |
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アルファロメオ・8C-2300 | BEL 2 |
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1932年 | アルファロメオ・Tipo B/P3 | アルファロメオ 2.6 L8 | ITA 1 |
FRA 1 |
GER 2 |
1位 | 4 | |||||
1935年 | スクーデリア・フェラーリ | アルファロメオ・Tipo B/P3 | アルファロメオ 3.2 L8 | MON Ret |
FRA Ret |
BEL | GER 1 |
SUI 5 |
4位 | 35 | ||
アルファロメオ・8C-35 | アルファロメオ 3.8 L8 | ITA Ret |
ESP Ret | |||||||||
1936年 | MON 4 |
3位 | 17 | |||||||||
アルファロメオ・12C 1936 (英語版) |
アルファロメオ 4.1 V12 | GER Ret |
SUI Ret |
ITA 2 |
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1937年 | スクーデリア・フェラーリ | アルファロメオ・12C-36 (英語版) |
アルファロメオ 4.1 V12 | BEL | GER 4 |
MON | ITA 7 |
7位 | 28 | |||
アウトウニオン・AG | アウトウニオン・タイプC | アウトウニオン 6.0 V16 | SUI 5 |
|||||||||
1938年 | アウトウニオン・AG | アウトウニオン・タイプD | アウトウニオン 3.0 V12 | FRA | GER Ret |
SUI 9 |
ITA 1 |
5位 | 20 | |||
1939年 | BEL Ret |
FRA Ret |
GER Ret |
SUI 5 |
4位 | 19 | ||||||
年 | チーム | コ・ドライバー | 車両 | クラス | 周回数 | 総合 順位 |
クラス 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1933年 | レイモンド・ソマー | レイモンド・ソマー(英語版) | アルファロメオ・8C 2300MM | 3.0 | 233 | 1位 | 1位 |
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