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ビザンチン帝国で10世紀頃編纂された百科事典 ウィキペディアから
『スーダ辞典』(スーダじてん)または『スーダ』(ギリシア語: Σοῦδα, Souda; Suda)は、10世紀ころ、東ローマ帝国で編纂された百科事典も兼ねる辞書である[1]。古代から当代の歴史に関わる約3万語を収録しており、東ローマ帝国の公用語であったギリシア語で記されている。
題名の「スーダ」は「砦」を意味する名詞である[1]。しかしながら、東ローマ帝国末期およびルネサンス期から20世紀前半に至るまで、人名に由来すると誤解されてスイダス(Σουίδας)という題名で伝えられてきた[1]。
その項目の豊富さから、現代の西洋古典学・古代ギリシア研究においても頻繁に参照される。1928年デンマークの学者アダ・アドラーが編修した刊本は、全5巻・約2700ページもの量に及ぶ[1]。2014年には、インターネット上での電子化が完遂され、訳注も施されている[2]。
誤った内容の項目も多いが、散逸した文献からの引用も多く、資料としての価値が高い[1]。項目はアルファベット順になっているが、同音で異なる文字が同じ箇所に入れてあるなど多少揺れがある。スーダの根幹をなす項目として、豊富な人物項目があり、それらの人物項目は6世紀の伝記作家ミレトスのヘシュキオスに基づくとされる[1]。
10世紀のマケドニア朝治下の東ローマ帝国では、後世「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれる古代ギリシア文化の復興が進み、皇帝コンスタンティノス7世の下では国家事業として古代の文献の収集・整理が行われていた。このスーダもその文化的興隆の中から生まれたものである。編纂者は複数の無名の学者とされる[1]。
成立年代は10世紀後半と推定される。その理由としては、12世紀のエウスタティオスの書物にスーダの引用が見られること、「当代の」大主教ポリュエウクトス(在位956-970)への批評が出てくること[1]、アダムの項目で書かれている年代記がヨハネス1世ツィミスケスの死亡(975年)で終わっていること[1]、バシレイオス2世・コンスタンティノス8世の言及があることなどによる。なお、11世紀のミカエル・プセルロスに関する語句も見られるが後代の挿入とされる。
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