スキロス島
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スキロス島(スキロスとう、ギリシア語: Σκύρος / Skyros)は、エーゲ海・スポラデス諸島にあるギリシャ領の島。古典ギリシア語の発音に従えば「スキュロス島」(Skúros)と表記される。
スポラデス諸島の東南端に位置する島。面積は209 km²でスポラデス諸島では最大。人口は約3,000人。
スキロス島の北側は森に覆われていて、そこには、この島の最高標高地点(792 m)であるオリンポス山(オリュンポス十二神の居所のオリンポス山とは同名の別の山)がある。一方、南側はKochila山がそびえていて、岩だらけである。島の中心地の名前も、島と同じスキロスである(地元ではChoraとも呼ばれる)。主要港は西海岸のリナリア。スキロス島には、ヴェネツィア人の占領期間(13世紀から15世紀)に建てられた城(kastro)の他、東ローマ帝国の時代(952年[1])に建てられた聖ゲオルギウス修道院(Ai Giorgis Skirianos)、Tris Boukes港にあるイギリスの詩人ルパート・ブルックの墓、Palamariには青銅器時代の考古学的遺跡、さらに海岸には多くの砂浜がある。スキロスポニー(スキリアンポニー)はこの島でしか飼育されていない。
紀元前2000年頃からしばらく、この島は「マグネシア人の島」として知られていた。マグネシア人以降、この島には、ペラスゴイ(en:Pelasgians)とドロピア人(it: Dolopia)、続いてスキロス人が住みついた。
ギリシア神話では、テーセウスがこのスキロス島で死んだとされている。紀元前475年、アテナイの将軍キモーン(Cimon)がドロピア人を破って、島全土を征服した。元々の住民たちは奴隷にされ、代わりにアテナイから来た入植者が島に住み着いた[2]。その時からデロス同盟の一部になり、後にはアテナイ帝国に組み込まれた。キモーンはテーセウスの遺骨を発見したと主張し、それをアテナイに返還した[3]。
紀元前340年にはマケドニア人がスキロス島を接収し、その支配は、紀元前192年にローマ帝国軍とピリッポス5世がアテナイに返還するまで続いた。
スキロス市(Δήμος Σκύρου)は、中央ギリシャ地方エヴィア県に属する基礎自治体(ディモス)である。スキロス島のほか、ヴァラクサ島 (Valaxa) 、スキロプラ島 (Skyropoula) 、サラキノ島 (Sarakino) などの周辺小島嶼(いずれも無人島)も市域に含む。
[ ] 内は人口(2001年国勢調査)を示す。
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