Loading AI tools
アメリカの政治家 (1773-1833) ウィキペディアから
ジョン・ランドルフ(英: John Randolph of Roanoke、通称ロアノークのジョン・ランドルフ[1]、1773年6月2日-1833年5月24日)は、アメリカ合衆国バージニア州出身の農園主および政治家であり、アメリカ合衆国下院議員および上院議員、さらには短期間だが在ロシアアメリカ合衆国大使を務めた。アメリカ合衆国下院において、トーマス・ジェファーソンの広報担当官を務めた後、1803年にはジェファーソンと訣別し、民主共和党の中で、中央政府の役割を制限し、州の権限擁護について先駆者となる「オールド・レパブリカン」あるいは「クイッド」と呼ばれた派閥の指導者になった[2]。特に1798年原則を推進した。この原則は、中央政府の法や布告の合憲性についてを個々の州が判断でき、それが違憲であるときは執行を拒否できるとしたものだった。
ジョン・ランドルフ John Randolph of Roanoke | |
---|---|
第8代在ロシアアメリカ合衆国大使 | |
任期 1830年5月26日 – 1830年9月19日 | |
大統領 | アンドリュー・ジャクソン |
前任者 | ヘンリー・ミドルトン |
後任者 | ジェームズ・ブキャナン |
アメリカ合衆国上院議員 バージニア州選出 | |
任期 1825年12月26日 – 1827年3月4日 | |
前任者 | ジェイムズ・バーバー |
後任者 | ジョン・タイラー |
アメリカ合衆国下院議員 バージニア州第5区アメリカ合衆国下院議員選出 | |
任期 1833年3月4日 – 1833年5月24日 | |
前任者 | トマス・T・ブールディン |
後任者 | トマス・T・ブールディン |
任期 1827年3月4日 – 1829年3月4日 | |
前任者 | ジョージ・W・クランプ |
後任者 | トマス・T・ブールディン |
任期 1823年3月4日 – 1825年12月26日 | |
前任者 | ジョン・フロイド |
後任者 | ジョージ・W・クランプ |
アメリカ合衆国下院議員 バージニア州第16区アメリカ合衆国下院議員選出 | |
任期 1819年3月4日 – 1823年3月4日 | |
前任者 | アーチボルド・オースティン |
後任者 | ジェイムズ・スティーブンソン |
任期 1815年3月4日 – 1817年3月4日 | |
前任者 | ジョン・W・エップス |
後任者 | アーチボルド・オースティン |
アメリカ合衆国下院議員 バージニア州第15区アメリカ合衆国下院議員選出 | |
任期 1803年3月4日 – 1813年3月4日 | |
前任者 | ジョン・ドーソン |
後任者 | ジョン・カー |
アメリカ合衆国下院議員 バージニア州第7区アメリカ合衆国下院議員選出 | |
任期 1799年3月4日 – 1803年3月4日 | |
前任者 | エイブラハム・B・ベナブル |
後任者 | ジョセフ・ルイス・ジュニア |
個人情報 | |
生誕 | 1773年6月2日 バージニア州コーソンズ |
死没 | 1833年5月24日 (59歳没) ペンシルベニア州フィラデルフィア |
政党 | 民主共和党 |
専業 | プランテーション主 |
宗教 | 米国聖公会 |
ランドルフはいたずら好きな機知に富み、頭の回転の速い雄弁家として共和主義を信奉し、アメリカ合衆国議会議員を務めた30年間を通じて商業的農本社会を提唱した。ランドルフの保守的な姿勢は、地主郷士の負債に反対し、その権利を守る議論に表されており、生まれたバージニア州南部における家産と最高のエリート的価値観に結びついていることに帰せられてきた。米英戦争(1812年-1815年)やミズーリ妥協(1820年)には激しく反対した。関税、製造業、通貨に関する議論では活発だった。奴隷制度に関しては複雑なものがあり、1816年に解放した黒人をアフリカの植民地に送るために設立したアメリカ植民地協会では、設立者の一人だった。奴隷貿易には反対したが、自分のタバコ・プランテーションでは数百人の奴隷労働に依存していた。その遺志で奴隷の解放とオハイオ州への移住を行わせた。
バージニア州の選挙民はランドルフの激しい性格と活発な選挙運動を楽しんでいた。楽しませ、また啓蒙するような弁論、社交性、および特に農業における興味の集まりでヨーマン(自営農)に直接訴え、ランドルフの個人的な欠陥があるにも拘わらず、有権者を長く惹きつけておくことになった。小さな政府を守ろうとしたことは、当時も今も、例えばラッセル・カーク(1918年-1994年)のような保守派に訴えるものがある。
ランドルフはバージニア州コーソンズ(現在のホープウェル)で生まれた。父はタバコ農園主ジョン・ランドルフ(1742年-1775年)、母はフランシス・ブランド(1744年-1788年)だった。どちらの家系もバージニアの第一世代家系に属する、ランドルフ家とブランド家であり、互いに姻戚関係も多かった。ランドルフ家の祖父はリチャード・ランドルフであり、その祖父はウィリアム・ランドルフだった。ブランド家の祖父はコーソンズのセオドリック・ブランドであり、その曽祖母はターキー島のメアリー・アイシャムだった[3][4]。
第一次大陸会議の柱石だったリチャード・ブランドとペイトン・ランドルフにとっては従兄弟甥であり、合衆国下院議員のセオドリック・ブランドの甥、トマス・チューダー・タッカーの継甥、ヘンリー・セントジョージ・タッカー・シニアとナサニエル・バーバリ・タッカーとは異父兄弟であり、トーマス・ジェファーソンはその母がアイシャム・ランドルフの娘だったので従兄弟にあたった。継父のセントジョージ・タッカーは未亡人となっていた母と1778年に結婚した。母方の4代先祖はバージニア知事のリチャード・ベネットであり、クロムウェル護国卿時代にその職に選ばれ、1672年にジョージ・フォックスによってクエーカー運動に改宗したピューリタンだった。
ランドルフは若いときに病気になり、髭が無く、声が高かった。最初は家庭教師に付いて学び、ウォルター・モーリーの私学に入り、その後ニュージャージーのカレッジとニューヨーク市のコロンビア・カレッジに進学した。フィラデルフィアでは法律を学んだが、実務を行うことはなかった。
ランドルフはポウハタン酋長の孫であるトマス・ロルフの子孫である[5]。
ランドルフの墓所はリッチモンドのハリウッド墓地である。
ランドルフは26歳という異常な若さでアメリカ合衆国第6議会の議員に選出され、その後6期連続して(1799年-1813年)務めた。ニューハンプシャー州出身の連邦党員ウィリアム・プラマーは、その衝撃的な登場に関して1803年に次のように記した。
ランドルフ氏はブーツを履き、拍車を付け、手に鞭を持って下院に行っており、イギリス議会の一員の真似だと言われている。大変ほっそりしているが普通の背丈である。少し離れると年上には見えない。しかし近づくとその皺や灰色の髪が見える。30歳くらいだと思われる。著名なインディアンの王女ポカホンタスの直系の子孫である。連邦党員は彼を冷やかし、軽蔑している振りをするが、軽蔑された敵が危険な敵であることが多い。確かにその才能は月並みなものを遥かに超えている。人気のある演説家として下院の誰にも劣っていない。私は彼の創造力と演説を賞賛するが、彼の政治は嫌いである。
ランドルフは第7議会から第9議会まで下院歳入委員会の議長を務め、民主共和党指導者の代行を務めた。1806年に従兄弟であるトーマス・ジェファーソン大統領と訣別した後、民主共和党の派閥であるターシャム・クイッド(第3のもの)を作った。この派は、1798年の原則への帰還を要求し、忍び寄る国家主義と考えられるものを否認した。
ランドルフは独立戦争世代の政治的な理想を強く賞賛していたが、南部の反連邦主義感情に影響され、バージニアのエリート郷士の伝統的父性社会が、政府による最小の干渉によって社会の安定性を保つことを要求する共和主義の考え方を提唱した。1804年1月にはニューハンプシャーの地区裁判所判事ジョン・ピッカリングに対する弾劾裁判を行い成功させた議員の一人だった。同年12月に最高裁判所陪席判事のサミュエル・チェイスを弾劾しようとして失敗したことについて、ランドルフを非難する者もいた。
1807年6月、バージニア州リッチモンドでの大陪審を監督した。これはアーロン・バーなどを反逆罪で起訴するかを検討するものだった。審問の最後になって、トーマス・ジェファーソンがバーの主要告訴人であるジェイムズ・ウィルキンソン将軍を支持したことで、ランドルフは怒った。ランドルフは、ウィルキンソンが信頼にも尊敬にも値しない人物だと考えた。
ランドルフは米英戦争に反対したために、1912年の選挙では落選したが、1814年と1816年には再選された。1期を飛ばして再度選出され、1919年から辞任した1925年まで下院議員を務めた。1825年12月には上院議員の空席を埋めるために指名され1827年まで務めた。その後も下院議員に選出され歳入委員会の議長を務めた。
1829年にはリッチモンドでのバージニア州憲法制定会議の一員になった。1930年にはアンドリュー・ジャクソン大統領から在ロシアアメリカ合衆国大使に指名されて着任したが、同年9月に健康上の理由で辞任した。
1832年には再度下院議員に選ばれ、1833年5月24日にフィラデルフィアで死ぬまで務めた。ランドルフは生涯結婚しなかった。
ジョン・グリーンリーフ・ウィッティアの詩「ロアノークのランドルフ」は、バージニアが「奴隷権力」の象徴になった後に書かれたものだが、ランドルフの奇妙な輝きを伝えている。
|
|
ランドルフはバージニアの紳士であり、かつてない雄弁家の一人であり、下院の指導者だったが、5年間指導力を発揮した後の1803年には、永遠の傍観者になった。個人的には奇行もあり、終生病気がちであり(結核で死んだ)、酒量が多く、ときとして麻薬を使うことで奇行が増した。ビル・カウフマンに拠れば、「習慣的に麻薬を使っており、アンドリュー・ジャクソンに恋心を抱いたようにも見える独り者」だった[6]。一度はヘンリー・クレイと決闘したが、それ以外では議場での喧嘩っ早さを抑えた。派手な服装をすることが多く、奴隷や狩猟犬を連れてくることも多かった。「クレイが1811年に初めて下院議長に選ばれ、議長職を真の権威あるものにしようとしているときに、さりげなくランドルフに議場から犬を連れ出すよう命じた。そのようなことをした議長はそれまで誰も居なかった[7]。」
ランドルフはクレイと共に1816年にアメリカ植民地協会を設立した3人のうちの1人となった。これは奴隷所有者と奴隷制度廃止論者と協業して、解放された黒人をアフリカの植民地に送り、再入植させようという計画を作った協会だった。その植民地が後にリベリアになった。ランドルフは、他の奴隷所有者達と同様に、理論的に奴隷制度に長く反対してきていた。独立戦争後の20年間で、多くの農園所有者が奴隷を解放したので、バージニア州における解放黒人の比率は1782年の1%足らずから1810年の13.5%まで増加していた[8]。
1819年、ランドルフは死後に奴隷を解放する遺書を作った。「私は私の奴隷全てに自由を与えると遺言する。一人でも所有者であったことを心から後悔している」と記した[9]。3年後の1822年、その遺言の補足書として、解放奴隷を自由州であるオハイオ州に購入した土地に運び、入植させるための金を提供すると規定した。40歳以上の奴隷に一人当たり10エーカー (40,000 m2) の土地が与えられた[9]。その遺志で数百人の奴隷を解放した[10]。この遺志は裁判所に異議申し立てされたが、最終的には奴隷が解放されることになった[11]。長たらしい訴訟の後も、ランドルフの遺志は維持された。1846年、383人の元「ランドルフの奴隷」がシンシナティに到着し、シェルビー郡ラムリーに入植した[12]。
ランドルフは米国聖公会で育てられ、一生そのままの信仰だった。若いときに信仰を失くしそうになり、1818年には改宗する危険性もあったが、それらは数人の友人に宛てた手紙で回想される程度だった[13]。その後の人生は敬虔さで埋められており、例えばジョン・ブロッケンブローに宛てて、「罪深く飲み食いする恐れによって」聖体を受けないようにしていると記した[13]。
ジョン・ランドルフの系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.