フランスの作曲家、海軍士官 ウィキペディアから
ジャン・クラ(Jean Cras、IPA: [ʒɑ̃ kʁaz][1], 1879年5月22日 – 1932年9月14日)は、フランスの作曲家で海軍士官。
作曲家としては、郷里ブルターニュの風景や、アフリカ海域での海軍生活に触発された作品を遺した。
海軍士官としては、海軍少佐の時に第一次世界大戦に際会し、魚雷艇長としてアドリア海で武功を挙げた。のちに海軍少将に進級し、ブレスト港次席指揮官を務めている時に病没した。クラは数学に長じており、技術面でもフランス海軍に貢献した。
ブレストで、海軍軍医官の子として生まれる。本名はジャン・エミール・ポール・クラ(Jean Émile Paul Cras)。1896年、17歳でフランス海軍士官候補生(« bordaches »[注 1])となって軍艦イフィジェニー号に乗組み、アメリカ大陸、西インド諸島、セネガルで実戦に参加した。
1908年に海軍大尉に任官。数学の素養に優れたクラは海軍に技術面で貢献し、特に、クラークの発明した電気切替器と航海用作図器(クラの名が冠されている)は、フランス海軍に制式採用された[2]。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、クラはオーギュスタン・ブエ・ド・ラペレール提督の副官を務め、その後は対潜部隊に勤務した。1916年には、魚雷艇コマンダン・ボリー号の艇長となった。アドリア海で敵潜水艦を撃沈する武功を挙げ、また、海中に転落した水兵を危険を省みずに救出して称賛された[2]。
大戦後は、海軍軍令部先任副官となり、海軍中佐に進級した。いくつかの軍艦に勤務した後、海軍技術研究所首席部員(l’État-major général des recherches scientifiques)を務めた。1931年には海軍少将に進級してブレスト港次席指揮官(major général de l’arsenal militaire du port de Brest)に就任したが、在職中に病没した[2]。
クラは早くから作曲家のアンリ・デュパルクに出逢っていて、2人は終生にわたって友情を結んだ。デュパルクはクラを「自分の精神的息子」と呼んでいる。フランス海軍における職務のために、音楽に割ける時間はほとんどなかったものの、クラは生涯にわたって作曲を続け、主に室内楽と歌曲を手懸けた。歌劇《ポリュフェーム(Polyphème)》など最も野心的な作品のほとんどが第一次大戦中に作曲されたり、楽器配置を施されたりしているのに対して、大半の作品は大戦後の日付が付いている。
こんにち最も有名な作品は、弦楽三重奏曲と弦楽四重奏曲である[2]。また、抒情悲劇《ポリュフェーム》は傑作と看做されている。この歌劇は、1922年の初演時に称賛され、フランスの報道機関にクラの名を広めた。ポリュフェームとは、ギリシア神話でいうポリュペーモスのフランス語形であり、すなわちポセイドーンの息子にして最年長のキュクロープスである。筋書きはオウィディウスの物語に基づいており、ポリュペーモス(バリトン)がガラテイア(オペラでは「ガラテー」、ソプラノ)に横恋慕して、恋人アーキス(オペラでは「アシス」、テノール)から奪おうとする。原作では最終的にポリュペーモスが、アーキスに向かって岩石を転がして殺してしまうのだが、台本作家のアルベール・サマンはポリュペーモスに人間性を与えており、オペラのポリュペーモスは二人の恋人同士の感情を悟って、アーキスを潰すのを止める。結局のところ、このキュクロープスは、恋人たちの幸せに恐怖を覚え、死地を求めて海中を彷徨うのであった。
《ポリュフェーム》の音楽は、変化に富み、きわめて半音階的であるなど、デュパルクやエルネスト・ショーソンの精神で作曲されているが、ドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》の影響も感じさせるように、印象主義的なところも見られる[2]。
後年の作品は、形式的にはセザール・フランクに近いものの、バルトークにも比しうる刺々しい様式を発展させた。クラは室内楽を自分の武器と看做して、「この洗練された音楽形式が自分にとって最も欠かせないものになってきた」と記している[3]。とりわけ《弦楽三重奏曲》は、幅広い様式を統合しており、北アフリカの影響も見られる。アンドレ・イモネ(André Himonet)は[4] 1932年に《弦楽三重奏曲》について、「完全に均衡のとれた音響体と、他に選びようもないほど豊かな表現力」に到達した作品と述べ、「奇跡的」な作品と呼んだ。《ピアノ三重奏曲》も、アフリカや東洋の旋律パターンをブルターニュの伝統音楽と融合させて、矛盾のない全体像を創り上げている。音楽評論家のミシェル・フルーリー(Michel Fleury)は《ピアノ三重奏曲》を、美術家アンリ・リヴィエールのジャポニスムの画風になぞらえて、楽曲が表現するのは「ブルターニュの地である。但し、作曲者が世界の至る所で得られたさまざまな経験によって恰もふるいにかけられたかのように様式化されたブルターニュである[5]」と述べている。
次女のコレットはピアニストとなり、作曲家アレクサンドル・タンスマンと結婚した[6]。
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