中世・近世ヨーロッパの地誌に現れる、現在の日本とされる島国 ウィキペディアから
マルコ・ポーロの『東方見聞録』は、以下のように伝えている。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』の写本・刊本によって一定せず、平凡社東洋文庫版(愛宕松男訳)の底本であるアルド・リッチ英訳本では「Chipangu」、フランス国立図書館 fr. 1116 写本(14世紀、イタリア語がかった中世フランス語)では「Cipngu」、グレゴワール本(14世紀、標準フランス語)では「Sypangu」、ゼラダ本(1470年頃、ラテン語)では「Çipingu」、ラムージオ本(1559年、イタリア語)では「Zipangu」となっている[5]。愛宕訳ではリッチ英訳本に基づいて「チパング」と訳している。
また、1525年にプトレマイオス・C(PTOLEMY, C.)と、グルニンガー・J(GRUNIGER, J.)が、『マルコ・ポーロの(古)中国と伝説のジパングリ』(Marco Polo's Cathay and fabled Zipangri)を出版。同書に所載された地図にも、「Zipangri」と大きく記載されている。 1544年に書かれ、17世紀前半まで5か国語で合計35版発行された中世のドイツ人、ゼバスティアン・ミュンスターによる著作『Cosmographia』に掲載されている地図にも、「Zipangri」と表記されている。 同じく、アントウェルペンの地図製作者であるアブラハム・オルテリウス(Abraham Ortelius)が1570年に出版し、その後も繰り返し再版された地図帳『世界の舞台(Theatrum Orbis Terrarum)』に所載された東インドと周辺島嶼の図「印度東洋島図(INDIAE ORIENTALIS INSVLARVMQVE ADIACIENTIVM TYPVS.1570)」でもやはり「Hanc insulam M. Paul Venet Zipangri vocat.」の説明書きがあり、「この島をヴェネツィアのマルコ・ポーロは“ジパングリ”と呼ぶ」と記載されている。
語源については、「日本国」を中世の中国語で発音した音[6]が語源とされ、その痕跡は、呉方言(浙江省・江蘇省・上海)・粤(えつ)方言(広東省・香港・マカオなど)・客家(はっか)方言(広東省東部など)・閩(びん)方言(福建省など)、そして台湾で話される閩方言の流れをくむ台湾語などの現代中国語の、特に南方の方言にも色濃く残されている[7]。ヨーロッパにはマルコ・ポーロが Cipangu(あるいはChipangu)として最初に紹介したと言われる。なお10世紀頃から地理学者イブン・フルダーズベなどをはじめアラビア語・ペルシア語の地理書において、後のジパングにあたると思われる金山を有する島(国)、ワークワークについて都度都度言及されており、関連があるとされる。
現代の多くの言語で日本を意味する Japan(英語「ジャパン」、ドイツ語「ヤーパン」)/Japon, Japón(フランス語「ジャポン」、スペイン語「ハポン」)/Giappone(イタリア語「ジャッポーネ」)/Yaponiya, Япония(ウズベク語「ヤポニヤ」、ロシア語「イポーニヤ」) などの言葉は、一般にジパングの「ジパン(日本)」が語源とされるが、ポルトガルが到達した16世紀頃の東南アジアで日本のことを中国語からの借用語で Japang と呼んでいたことに由来するという説など、様々な異説もある。但し、この説は日本人のように「n」と「ng」を聞き分けられないはずのない東南アジアの言語を母国語にしている人々が Japanと Japang とを混乱して呼んでいたとは考えられないので、かなり信憑性が低い。現代ポルトガル語での日本の呼称はJapão(ジャポン)である。
日本ではマルコ・ポーロが紹介した事実が非常によく知られており、日本の異称として認識されている。
Google翻訳の左ペイン(原語側)をベトナム語に設定し、「日本国」と入力する。同じ入力ボックス内のスピーカーボタンを押す。「ジーパングー」の音が聞ける。
ベトナムは漢字圏であり(建国の父ホー・チミン氏の漢字表記は「胡志明」)、国号も越南=ゥエットナンムが語源。10世紀に唐の支配から逃れて独立している。現代ベトナムの漢語発音がどの程度まで中世中国語に通じているかは不明だが、独立時の発音が残った可能性がある。宋を経て12-13世紀に元に伝わった唐の歴史資料や言語も、ベトナムに伝わったものと大差無かったのではないか。
漢和辞典によると「本」は漢音呉音とも「ホン」だが、「日」の呉音は「ニチ」漢音が「ジツ」。呉音の呉は3世紀の呉ではなく、春秋時代B.C.6世紀の呉-日本では弥生時代中期にあたる。日本人が弥生時代に最初に学んだ中国語が呉音なのである。
それから約1500年後の西暦702年、粟田真人等遣唐使によって「日本国」への改号が唐王朝へ伝えられた。その直前には(663年)白村江の戦い、(672年)壬申の乱、(679年)筑紫地震等大きな事変が続出。これらの国難を収める為には統一国家としての再出発が必須であり、その指針として行われたのが天武天皇による法の整備(飛鳥浄御原令)と歴史書の編纂(古事記と日本書紀)、そして国名改号である。唐王朝への伝達は天武没後となったが、粟田らは鼻息高く、知りうる限り最新の中国語の発音で意気って表明したはずである。
マルコ・ポーロが伝え聞いたジパングの話は、平安時代末期に平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた奥州平泉の中尊寺金色堂がモデルになっているという説がある。当時の奥州(現在の東北地方)は莫大な砂金を産出しており、奥州藤原氏によって国際貿易に使用されていた。また鎌倉大仏も関係しているといわれている。
マルコポーロが元王朝に仕えていた13世紀頃、奥州の豪族安東氏は十三湖畔にあった十三湊経由で独自に中国と交易を行っていたとされ、そこからこの金色堂の話が伝わったものとされる。
モンゴル帝国時代、大元朝時代の「日本観」についてであるが、大元朝後期に中書右丞相トクトらによって編纂された『宋史』「日本伝」では、「その地東西南北、各々数千里なり。西南は海に至り、東北隅は隔つるに大山を以てす。山外は即ち毛人(蝦夷か)の国なり」とした上で、雍熙元年(984年)に入宋した日本人僧の奝然の伝えたところとして、「天御中主」(天御中主尊)から「彦瀲尊」(彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)までの約23世、「神武天皇」から「守平天皇」(円融天皇)までの約64世を列記し、「国中に五経の書および仏経、『白居易集』七十巻あり、並びに中国より得たり」「土は五穀によろしくして麦少なし」「糸蚕を産し、多く絹を織る、(その布地は)薄緻愛すべし」「四時(春夏秋冬)の寒暑は、大いに中国に類す」と記し、「東の奥洲」で黄金を産出し、対馬のことと思われる「西の別島は白銀を出だし」などと記している。日本の地理などの情報は全体的にほぼ正確に伝えているが、「犀・象多し」など事実と異なった記述も一部ある[8]。
また、『集史』「クビライ・カアン紀」によると、東南方、「環海中、女直と高麗(جورجه و كولى Jūrja wa Kūlī)地方沿岸近くに大島があり、それはジマングー(جمنكو Jimangū?)という名前である。(女直や高麗の地域から)400ファルサング(約 2,000 km)離れている」とあり、女直、高麗などから東南海上の彼方に大元朝に敵対する地域として「日本国」の音写とおぼしき「جمنكو j-m-n-k-w」と呼ばれる大島についての記述がある[9]。
上記のごとく、マルコ・ポーロのジパングが日本のことを指すという見方が現在一般的であるが、異説もある[10]。
などの理由から、ジパングと日本を結びつけたのは16世紀の宣教師の誤解であるとする説もある。またジパングの語源としても、元が遠征した東南アジアの小国家群を示す「諸蕃国」(ツィァパングォ)の訛りであるとする。
なお、14世紀に東南アジアのジャワ島を訪れた旅行家のオドリコは、ジャワ島には壁から床までが黄金で敷き詰められた宮殿があるという証言を残している[11]。
イスラーム世界(アラビア語・ペルシア語圏)において「ワークワーク(الواقواق al‐Wāqwāq)」というスィーン(al-Ṣīn、中国)の東方にある地域(または島)の記録があり、9世紀半ばに著されたイブン・フルダーズベのアラビア語最古の地誌『諸道と諸国の書』(アラビア語: كتاب المسالك والممالك / Kitāb al-Masālik w’al-Mamālik)によると、ここでは黄金を産出し、衣服から犬の首輪まで黄金が用いられ、輸出も行っているとされる。またシーラ (Shīlā) という国がカーンスー(Qānṣū、杭州か揚州)の沖にあり、ここも黄金に富むという。
ワークワークは日本の旧称「倭国(わこく)」に由来するという説もあるが、スマトラ、マダガスカル、ボルネオ、フィリピンなどのアフリカや東南アジアという説もあり詳しいことは分かっていない。
シーラは山が多い、多くの王がいる、環境が良いため入国者がそのまま居住するとされ、古代の日本に当てはまる記述もあるが詳細は不明である。
イドリースィーの地図は1154年頃の知見を集めたものであるが、ポーランドにあたる地域の記述など資料の取り違えとみられる点もある。
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