ジェリー・リーバーとマイク・ストーラー

アメリカの音楽プロデューサーのコンビ (1933-) ウィキペディアから

ジェリー・リーバーJerry Leiber1933年4月25日 - 2011年8月22日[1] と、マイク・ストーラーMike Stoller1933年3月13日 - )[2]は、アメリカソングライターにして音楽プロデューサーのコンビ。

概要 リーバーとストーラーLeiber and Stoller, ジャンル ...
リーバーとストーラー
Leiber and Stoller
ジャンル ポップスR&Bロックンロール、ブロードウェイ楽曲
職業 ソングライター、音楽プロデューサー・デュオ (リーバー – 作詞家
ストーラー – 作曲家)
活動期間 1950年 - 2011年
レーベル スパーク・レコード
ジェリー・リーバー
出生名 Jerome Leiber[1]
生誕 (1933-04-15) 1933年4月15日
アメリカ合衆国 メリーランド州ボルチモア
死没 (2011-08-22) 2011年8月22日(78歳没)
アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
マイク・ストーラー
出生名 Michael Stoller
生誕 (1933-03-13) 1933年3月13日(91歳)
アメリカ合衆国 ニューヨーククイーンズ区
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ストーラーが作曲でリーバーが作詞を担当。「リーバー=ストーラー」と呼ぶ場合が多い。エルモ・グリックElmo Glick)という変名が使用されることもある[3]

最も有名な歌は「スタンド・バイ・ミー」「ハウンド・ドッグ」「監獄ロック」「ドント」「カンサス・シティ」「オン・ブロードウェイ」など。

概要

彼らの最初の成功は「ハウンド・ドッグ」「カンサス・シティ」などだった。1950年代後半、ザ・コースターズの諸作品で、ヒット曲を量産した。それらはティーンエイジャーたちのユーモラスな語法を用い、ロックンロールの歴史の一部になった。歌のスタイルは、十代の若者向きであった。「ヤング・ブラッド英語版」「サーチン」(以上2曲はビートルズがカバーした)「ヤケティー・ヤック」などが作品例である[4]

彼らはブラック・ミュージックを白人の作曲家として取り入れた、最も初期の作曲家チームだった。1959年の「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」ではストリングスを導入し、ドリフターズの歌の情感を引き出し、フィル・スペクターに刺激を与えた(スペクターはドリフターズやベン・E・キングのレコーディングで彼らを手伝っていた)。

その後、レコード・ビジネスに参入し、ガール・グループ・サウンドに集中することでブリル・ビルディング時代の古典の数々を録音した[5]

また、エルヴィス・プレスリーのために「ラブ・ミー」「監獄ロック」[6]「ラヴィング・ユー」「ドント」「キング・クレオール」などを書いた[7]

1985年「ソングライターの殿堂」、1987年ロックの殿堂入り[8]

略歴

要約
視点

初期

両者ともユダヤ系家族に生まれる。リーバーはメリーランド州ボルチモア、ストーラーはニューヨーク州ロングアイランド出身。1950年にロサンゼルスで出会った。ストーラーがロサンゼルス・シティー・カレッジの1年生で、リーバーがフェアファックス高校の3年生だった。ストーラーはベルモント高校を卒業していた。放課後ストーラーはピアノを弾き、リーバーはフェアファックス・アベニューの「ノーティーの店」というレコード店で働いていた[9]

彼らが出会ったとき、お互いにブルースリズム・アンド・ブルースへの愛を共有していることがわかった。そして1950年(17歳)、ジミー・ウィザースプーンが彼らの最初の歌「Real Ugly Woman」を録音した。

最初のヒットは「ハード・タイムス」で、チャールズ・ブラウン が録音し、1952年にR&Bチャートでヒットになった。「カンサス・シティ」は初め「K. C. ラヴィング」としてR&B歌手リトル・ウィリー・リトルフィールド英語版が録音し、ウィルバート・ハリスンのバージョンが1959年にポップ・チャートで1位となった。

「ハウンド・ドッグ」の成功

1952年、「ハウンド・ドッグ」を書き、ブルース歌手ビッグ・ママ・ソーントンが歌い[6]、翌年ヒットした。1956年のエルヴィス・プレスリーのロック・バージョンは、ラスベガスのキャバレー歌手フレディー・ベルの1955年のバージョンをカバーしたものであり、宇宙的ヒットになった[10][6]。そしてこのリーバー=ストーラー作品は永遠にプレスリーのものとなった。

以降の彼らの作品の歌詞はポップ性を増し、リズム・アンド・ブルースとポップの歌詞の融合はポップ、ロックンロールに革命を起こした。

スパーク・レコード設立

1953年、彼らの師匠であるレスター・シルとともに、スパーク・レコードを設立。この時期の作品には「スモーキー・ジョーズ・カフェ英語版」「ライオット・イン・セル・ブロック#9」がありロビンズ(後のコースターズ)が録音した[11]

レーベルは後にアトランティック・レコードが買い、リーバー=ストーラーは「他のレーベルで仕事してもいい」という革新的な契約で雇われた。結果として彼らは史上初の独立レコード・プロデューサーとなった[11]。アトランティックで彼らはドリフターズのキャリアを復活させ、コースターズの一連のヒット「チャーリー・ブラウン」「サーチン」「ヤケティー・ヤック」[12]、「スタンド・バイ・ミー」(ベン・E・キング)、「オン・ブロードウェイ」(ドリフターズ)などを書いた。コースターズ作品で全米チャートに現れたものだけでも24曲ある。

1955年に「ブラック・デニム・トラウザーズ・アンド・モーターサイクル・ブーツ」を白人ボーカル・グループ「チアーズ」で録音し[11]、 直後にエディット・ピアフがフランス語のタイトル「L'Homme à la Moto」(『バイクの男英語版 』)で同曲をカバーした。チアーズの別の曲「バズーム(アイ・ニード・ユア・ラヴィン)」のヨーロッパでの印税で1956年にストーラー夫妻はヨーロッパに旅行しピアフに会った。彼らがニューヨークに戻るとリーバーは「『ハウンド・ドッグ』がエルヴィス・プレスリーでヒットしたよ!!」と報告したが[10]、ストーラーから「エルヴィス…だれ?」と返された。

彼らはプレスリーのため、さらにヒット曲を書いてゆき、プレスリー主演の3本の映画『さまよう青春』『監獄ロック[13]闇に響く声』の主題歌も書き、彼の最初のクリスマス・アルバムにロックンロールのクリスマス・ソング「サンタが町に来る」も書いた。

1960年代以降

1960年代初頭、フィル・スペクターがスタッフとして彼らの下で働き、ドリフターズ「オン・ブロードウェイ」などでギター・ソロを演奏しながらレコード・プロデューサーとして成長していった。

その後、アトランティック・レコードを去り、ユナイテッド・アーティスツ・レコードでジェイ・アンド・ヂ・アメリカンズ「シー・クライド」、エキサイターズ「テル・ヒム」、クローヴァーズ「ラブ・ポーションNo.9」などを録音した。

1960年代にレッド・バード・レコードを創設し、短期間所有し、シャングリラスの「リーダー・オブ・ザ・パック」(全米1位)、ディキシー・カップスの「愛のチャペル」(全米1位、作詞作曲はバリー=グリニッチ=スペクター)などを録音した。

レッド・バードを売ると、独立チームとして仕事を続けた。この時期の最大ヒットは1969年のペギー・リー「Is That All There Is?」で、グラミー賞をリーにもたらした。その前にリーとは「I'm a Woman」のヒットもある。

1972年、スティーラーズ・ホイール英語版のデビュー・アルバムをプロデュース。翌年にシングルカットされた「スタック・イン・ザ・ミドル・ウィズ・ユー」は世界各国で大ヒットとなった。

1975年にはペギー・リーのアルバム『Mirrors』をプロデュースしている。同アルバムは30年後の2005年にリイシューされた。 Peggy Lee Sings Leiber and Stoller

また、同年にはプロコル・ハルムのアルバム『プロコルズ・ナインス』もプロデュースしている。

その後

  • 1970年代後半にA&Mレコードは彼らを雇い、エルキー・ブルックス英語版のアルバム『Two Days Away』(1977年)で作曲・プロデュースを担当させ、イギリスとヨーロッパで成功を収めた。「Pearl's A Singer」(Ralph DinoとJohn Sembelloが共作)はブルックスのヒット曲となり、今も彼女の代名詞的楽曲である。1979年にはもう一枚『Live and Learn』を彼女のためにプロデュースしている。
  • 1978年、ジョアン・モリスとウィリアム・ボルコムはリーバー=ストーラーの風変わりな「Let's Bring Back World War I」「Humphrey Bogart」を録音している[14]
  • 同年、マイケル・マクドナルドは「I Keep Forgettin' (Every Time You're Near)」を録音し、それがリーバー=ストーラーの「I Keep Forgettin'」に似ていたため、彼らの名前をクレジットした。
  • アーティ・バトラーと協力してストーラーはミュージカル『The People in the Picture』の曲を書き、2011年のドラマ・デスク・アワードを受賞した。
  • ジェリー・リーバーは、ロサンゼルスのシーダーズ・サイナイ・メディカル・センターで2011年8月22日に亡くなった[1] 彼には三人の息子Jed, Oliver,Jakeがいた。[15]
  • マイク・ストーラーは「Charlotte」を作詞作曲し、スティーヴ・タイレルが録音し、2012年民主党全国大会がノースカロライナ州シャーロットで開催される直前にリリースされた[16]

受賞歴

彼らは1969年に「Is That All There Is?」でグラミー賞を受賞。

1996年に彼らの作品を集大成したブロードウェイでのレビュー『Smokey Joe's Cafe』のキャスト・アルバムで、7つのトニー賞にノミネートされ、レビューはブロードウェイ史上最長のロングランになった。

その他:

影響

1950年代にリズム・アンド・ブルースをメインストリームに持ち込んだ[7]

1957年にコースターズの両面ヒット「Young Blood/Searchin'」をリリースし、現代ポピュラー音楽のコースを決定づけた[13][4]

1959年にドリフターズの「There Goes My Baby」をプロデュースし、ストリングス・アレンジをポップスに導入し、ソウルミュージックへの布石を打った[20][5]

2009年、彼らの自伝『Hound Dog: The Leiber and Stoller Autobiography』(共著:David Ritz)が出版された。

今日、彼らの楽曲を管理しているのはソニーATVミュージックパブリッシングである。

主な作品

関連項目

脚注

外部リンク

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