シーサッチャナーライ郡
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シーサッチャナーライ郡(シーサッチャナーライぐん)は、タイのスコータイ県にある郡(アンプー)である。
シーサッチャナーライとは「吉祥なる銀の出るところ」を意味する。旧称・チャリエン (タイ語: ชะเลียง) 、ハートシアオ (タイ語: หาดเสี้ยว) 。サワンカローク (タイ語: สวรรคโลก) 、サンカローク (タイ語: สังคโลก) とも称したが、現在、この名称はサワンカローク郡のものとなっている。
3世紀ごろの人間の形跡もみられる。クメール王朝時代の遺構も見つかっており、タイ族到達以前からの人類の痕跡がある。
スコータイ王朝時代には、4大一級地方ムアン(ムアンルークルワン、Muang Luk Luang)の1つとなり[1]、スコータイの副王の統治する町となった。スコータイ王ラームカムヘーンは中国から陶磁器の製法を輸入し、シーサッチャナーライ周辺では陶器産業が盛んになった。また、ラームカムヘーン王はここに仏塔を建て、仏舎利を奉納している。スコータイ王リタイは、即位するまではシーサッチャナーライの国主であり、即位の後もシーサッチャナーライに寺院など多数建立し、現在、シーサッチャナーライ歴史公園と呼ばれて残る遺跡を作り上げた。
その後、アユタヤ王朝に帰順したが、トライローカナート王の時代の1460年には、サワンカローク(シーサッチャナーライ)の国主は宗主国であったアユタヤに離反し、北方のラーンナーに帰順した。その翌年、サワンカロークの国主は、チエンマイの国王を連れて、ピッサヌロークやカムペーンペットを得ようとしたが失敗に終わる[2]。この後、このサワンカロークの国主は、チエンマイの王に不忠であるとされて、チエンマイに送られ、ラムパーンの国主が代わりにサワンカロークの国主となった[3]。この後、トライローカナートはサワンカロークを取り返している。
1767年のアユタヤ陥落の際に町は見捨てられ、後のラッタナコーシン王朝時に再建された。そのころの町はハートシアオと呼ばれていたが、1939年に現在の名前に改称された[4]。
南部にはヨム川の形成した台地が広がり、北部には山岳地帯が広がる。
交通は、国道101号線が南北に通っており、北はプレー方面と、南はスコータイ方面とつながっている。国道102号線が東に延びておりウッタラディット方面とつながっている。
郡内の主な産業は農業であり、米の生産が盛んである。
郡は11のタムボンがあり、さらにその下位に148の村(ムーバーン)が存在する。郡内には2つのテーサバーン(自治体)が設置されており以下のようになっている。
また、郡内には8つのタムボン行政体が設置されている。以下はタムボンの一覧である。
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