シャルル・ド・ロレーヌ (1524-1574)

フランスの貴族及び聖職者。シュヴルーズ公、メス司教、ランス大司教、ロレーヌ枢機卿。フランソワ・ラブレー、ピエール・ド・ロンサールの庇護者。 ウィキペディアから

シャルル・ド・ロレーヌ (1524-1574)

シャルル・ド・ロレーヌCharles de Lorraine, 1524年2月17日 - 1574年12月26日)は、フランスの貴族及び聖職者。シュヴルーズ公(Duc de Chevreuse)、メス司教ランス大司教、ロレーヌ枢機卿ロレーヌ家出身者としては2人目、その分枝であるギーズ家からは初の枢機卿であった。フランソワ・ラブレーピエール・ド・ロンサールの庇護者でもあった。

概要 シャルル・ド・ロレーヌ, 大司教区 ...
シャルル・ド・ロレーヌ
ランス大司教、ロレーヌ枢機卿
Thumb
ロレーヌ枢機卿像、フランソワ・クルーエ
大司教区 ランス
着座 1538年
離任 1574年
聖職
枢機卿任命 1547年7月
個人情報
出生 1524年2月17日
フランス王国、ジョアンヴィル
死去 1574年12月26日
フランス王国アヴィニョン
両親 父:ギーズ公クロード
母:アントワネット・ド・ブルボン
紋章 シャルル・ド・ロレーヌの紋章
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生涯

初代ギーズ公クロードと妃でヴァンドーム伯フランソワの娘アントワネット・ド・ブルボンの次男として、ジョアンヴィル(現オート=マルヌ県の町)で生まれた[1][2]スコットランドジェームズ5世メアリーカトリック同盟の首領として知られるギーズ公フランソワの弟、オマール公クロード2世、エルブフ侯ルネ2世、同じく枢機卿となったルイの兄にあたる。フランス王アンリ2世の戴冠後である1547年7月に枢機卿に任命された[3]

ランス大司教は伝統的にフランス王の戴冠式で王冠を授ける立場にあったことから、ヴァロワ王家とのつながりを自然に持つこととなった。しかし、ロレーヌ公領をフランス王国に併合しようと企むアンリ2世の思惑を伺い、ルター派信徒が多いドイツ諸侯へすり寄る狡猾さも持っていた。アラス司教でもあったグランヴェル枢機卿とは密接な関係であり、このためにスペイン・ハプスブルク家とのつながりも持っていた。姪メアリー・スチュアートフランソワ2世妃であった頃から、宮廷での影響力は絶大であった。

ユグノー戦争においては、異端審問所をフランスで設置しようとしている。その後パリ知事フランソワ・ド・モンモランシーアンヌ・ド・モンモランシーの子)と対立し、宮廷から遠ざかるものの、甥のギーズ公アンリ1世のとりなしもあってシャルル9世と和解した。シャルル9世とエリザベート・ドートリッシュの結婚、王妹マルグリット・ド・ヴァロワとナヴァール王アンリ(後のアンリ4世)の政略結婚交渉を行った。

1574年に死去、ランス大司教は甥のルイ(アンリ1世の弟)が、シュヴルーズ公爵位は又甥のシャルル(アンリ1世の息子)が継いだ。

脚注

参考文献

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