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ウラル南部から黒海北岸にかけて活動したイラン系遊牧民(前4世紀-4世紀) ウィキペディアから
サルマタイ(ギリシア語:Sarmatai、ラテン語:Sarmatae、英語:Sarmatians)は、紀元前4世紀から紀元後4世紀にかけて、ウラル南部から黒海北岸にかけて活動したイラン系遊牧民集団。紀元前7世紀末からウラル南部にいたサウロマタイに紀元前4世紀頃東方から移動してきた遊牧民が加わって形成されたとされる[1]。サルマタイはギリシア語であり、ラテン語ではサルマタエとなる。また、彼らのいた黒海北岸地域をその名にちなんでサルマティアと呼ぶため、サルマティア人とも呼ばれる。
サルマタイの名が初めて登場するのは紀元前4世紀のギリシアの著作である。それ以前はヘロドトスなどに記されたように、サウロマタイという名前のよく似た民族が登場していた。サウロマタイはサルマタイの直接の祖先とされ、考古学的にはドン川から西カザフスタンにいたるまでの地域における紀元前7世紀から紀元前4世紀の文化をサウロマタイ文化とし、それに続く文化をサルマタイ文化(紀元前4世紀 - 紀元前2世紀)としている。[3]
ヘロドトスによるとサウロマタイはウラル川からヴォルガ川流域の草原地帯で遊牧を営んでいたが、ヒッポクラテスが記したように紀元前5世紀末になるとマイオティス湖(アゾフ海)周辺に移住していた。紀元前4世紀中葉になると、クニドスのエウドクソスはタナイス川(ドン川)に住むシュルマタイ(syrmatai)というサウロマタイ系の部族を記録し、カリュアンダのスキュラクスもタナイス川(ドン川)にシュルマタイの存在を記し、サウロマタイの一集団とした。しかし、フィリッポフカ古墳の発掘調査によると、紀元前5世紀末までにウラル川中流域でサルマタイの勢力が増大していたことが明らかとなる。[4]
サルマタイのスキティア侵略については様々な史料に断片的に記録されているが、ヘロドトス等に記されているスキタイほど詳細な史料が存在しない。しかしながら、紀元前4世紀末にはサルマタイ諸部族がサウロマタイに代わってドン川に迫り、そのうちのシラケス族はボスポロス王国の権力闘争に深く関与してクバン川流域を支配下に置いたという。時にスキタイ(第二スキタイ国家)は紀元前339年のアテアス(アタイアス)王の死後から弱体化し、紀元前3世紀にはドン川を越えて侵攻してきたサルマタイによって征服されてしまう。以降、この地域はスキタイのスキティアからサルマタイのサルマティアと呼ばれるようになった。サルマタイは黒海北岸を征服すると、そこにあったギリシア植民市にも侵略し、自由民たちを捕虜にして売りさばいた。サルマタイから圧迫されたスキタイはクリミア半島に押し込まれ、第三スキタイ国家を形成した。その地域は小スキティアと呼ばれた。[5]
ポントス・ボスポロス王のパルナケス(在位:紀元前63年 - 紀元前47年)がローマと戦うことになったため、シラケス王のアベアコスは騎兵2万、アオルソイ王のスパディネスは20万、高地アオルソイ族はさらにそれ以上の騎兵を送って従軍させた。[6]
35年、パルティア王アルタバヌス2世(在位:10年頃 - 38年)の王位に不満を持ったパルティア貴族がローマ帝国に支援を求めた。ローマのティベリウス帝(在位:14年 - 37年)は援軍を派遣するとともにティリダテス3世を新たなパルティア王に据え、前年にアルタバヌス2世が奪ったアルメニア王国を取り返した。この戦いでサルマタイは両方の側にかり出され、互いに争ってアルメニア奪還に貢献した。[7]
ボスポロス王国のミトリダーテス(在位:41年 - 45年)は王位を弟のコチュスに奪われて以来、各地を彷徨っていたが、ボスポロス王国からローマの将軍ディーディウスとその精兵が撤退し、王国にはコチュス(在位:45年 - 62年)とローマ騎士ユーリウス・アクィラの率いる少数の援軍しか残っていないことを知った。ミトリダーテスは二人の指揮者を見くびって部族を煽動して離反を促し、軍勢を集めてダンダリカ族の王を放逐し、その王国を掌中に収めた。これを聞いたアクィラとコチュスは、自分らだけの手勢に自信が持てなかったため、アオルシー族の強力な支配者であったエウノーネスに使節を送り、同盟条約を結んだ。[8]
両軍は合同して縦隊をつくり、進軍を開始した。前部と後尾はアオルシー族が、中央はローマの援軍とローマ風に装備したボスポロスの部族が固める。こうした隊形で敵を撃退しながら、ダンダリカ王国の首邑ソザに達した。すでにミトリダーテスがこの町を放棄していたため、ローマ軍は予備隊を残して監視することにした。ついでシラキー族の領地に侵入し、パンダ河を渡り、首邑ウスペを包囲した。この町は丘に建てられ、城壁や濠で守られていたが、城壁は石ではなく、柳細工や枝細工を積み重ねたものに土をつめただけのものであったため、突破するのにさほど時間がかからなかった。包囲軍は壁より高い楼を築き、そこから松明や槍を投げ込み、敵を混乱に陥れた。[9]
翌日、ウスペの町は使節を送ってきて「自由民に命を保証してくれ」と嘆願し、奴隷を一万人提供しようとした。ローマ軍はこの申し出を断り、殺戮の号令を下した。ウスペの町民の潰滅は、付近の人々を恐怖のどん底に陥れた。シラキー族の王ゾルシーネスはミトリダーテスの絶体絶命を救ってやろうか、それとも父祖伝来の王位を維持しようかと、長い間考えあぐねた。遂に自分の部族の利益が勝って、人質を提供し、カエサルの像の下にひれ伏した。こうしてローマ軍はタナイス河を出発して以来、三日間の行軍で一滴の血も失わずに勝利を勝ち取ることができた。しかしその帰途、海を帰航していた幾艘かの船が、タウリー族の海岸に打ち上げられ、その蛮族に包囲され、援軍隊長とその兵がたくさん殺された。[10]
ミトリダーテスは自分の軍隊を少しも頼れなくなり、アオルシー族のエウノーネスに依ろうとした。ミトリダーテスは服装も外見も現在の境遇にできるだけ似つかわしく工夫し、エウノーネスの王宮に赴いた。[11]
エウノーネスは盛名をはせたこの人の運命の変わり方と、そして今もなお尊厳を失わぬ哀訴にひどく心を動かされた。そして嘆願者の気持ちを慰め、ローマの恩赦を乞うために、アオルシー族とその王の誠意を択んだことに感謝した。さっそくエウノーネスは使節と次のような文書をカエサルの所へ送った。「ローマの最高司令官らと偉大な民族の王たちの友情は、まず地位の相似から生まれている。予とクラウディウスはその上に勝利を分けあっている。戦争が恩赦で終わる時はいつも、その終結は輝かしい。このようにして、征服されたゾルシーネスはなにも剥奪されなかった。なるほどミトリダーテスはさらに厳しい罰に価する。彼のため権力や王位の復活を願うのではない。ただ彼を凱旋式に引き出したり、斬首で懲らしめたりしないようにと願うだけである。」[12]
かつてローマのドルスス・カエサルがスエビ族の王位に据えていたウァンニウスが内紛によって放逐されたため、ウァンニウスはローマに支援を求めた。しかし、クラウディウス帝(在位:41年 - 54年)は蛮族同士の争いに軍を派遣したくなかったので、戦闘はせず、最低限の軍を川岸に配備するのみで、ウァンニウスには避難所を与えてやった。ウァンニウスには彼の部族(クァディー族)の歩兵とサルマタイのイアジュゲス族の騎兵が味方となった。敵はヘルムンドゥリー族、ルギイー族など数が多く、太刀打ちできないと思ったウァンニウスは砦にこもって籠城戦に持ち込もうとした。しかし、敵の包囲にたまりかねたイアジュゲス族が打って出たため、ウァンニウスも出る羽目になり敗北を喫した。[13]
1世紀になると文献からアオルシ(アオルソイ)の名が消え、代わってアランという名の遊牧民が強大となる。このことは漢文史料にも記されており、「奄蔡国、阿蘭と改名す」とある。この奄蔡はアオルシに阿蘭はアランに比定されている。考古学的には2世紀から4世紀における黒海北岸の文化を後期サルマタイ文化と呼んでいるが、この文化の担い手はアランであるとされる。アランについて4世紀後半のローマ軍人アンミアヌス・マルケリヌスは「彼らは家を持たず、鍬を使おうともせず、肉と豊富な乳を常食とする」と記している。[14]
後にアランは北カフカスから黒海北岸地方を支配し、その一部はパンノニアを経てフン族に起因する民族移動期にドナウ川流域から北イタリアに侵入し、一部はガリアに入植した。さらにその一部はバルバロイを統治するためローマ人によってブリテン島へ派遣された。また、その他の一部はイベリア半島を通過して北アフリカにまで到達した。アランより前にパンノニアに進出し、ローマ人によってブリテン島の防衛に派遣されたイアジュゲス族もブリテン島にサルマタイ文化の痕跡を残した。[15]
サルマタイの遺跡は低平な墳丘の古墳である。埋葬儀礼の大きな特徴はポドボイ墓である。被葬者はその墓室に仰臥伸展葬、南枕で葬られた。また、サウロマタイと同様に地下式横穴墓や、プラン方形あるいは楕円形の竪穴墓も知られているが、サウロマタイと比較して墓室・墓壙は小さい。竪穴墓では墓壙の縁に低い段が作られた片付き墓が時折見られるが、その場合は古墳の主体部であるという。竪穴墓の天井は丸太や板、樹皮などで覆われた。大きな墓壙の場合は、天井の構造が複雑になり、羨道を伴うものもある。方形の墓壙では被葬者は墓壙の対角線上に安置されていた。このような対角線埋葬は紀元前5世紀のサウロマタイで若干知られていたが、サルマタイ時代にとくに発達した儀礼である。また、墓壙床面に白亜が散布される例も知られている。副葬品としては、特徴的な丸底土器、青銅製鏃、長剣および短剣などがあり、前肢を伴う牡羊の肉が死者のために供えられた。[16]
前期サルマタイ文化はオレンブルク州プロホロフカ村古墳群の発掘によって明らかにされたため、プロホロフカ文化と呼ばれる。プロホロフカ文化は紀元前4世紀にはまだ南ウラル地方に分布の中心があったが、同世紀末までにヴォルガ・ドン川流域に拡大し、さらに紀元前3世紀にはドン川を越えてドニェプル川流域に達している。
サルマタイ文化は中期サルマタイ時代に最盛期を迎えた。この時代の文化はサラトフ市の北のヴォルガ川左岸に位置するスースルィ村古墳群にちなんでスースルィ文化と呼ばれる。サルマタイの墓はヴォルガ川下流域から北カフカス、黒海北岸、ドナウ川流域にいたる広範囲に分布する。トルコ石やザクロ石、練り物などを動物の体躯などに像嵌した多色装飾の動物様式を持つ金製の武器、馬具、ディアデム、容器などがイタリアおよびローマ辺境諸州から輸入された銀製容器などと一緒に発見されることがこの時代の大きな特徴である。このような資料が出土した例としては、ドン川下流域右岸のホフラチ古墳や、サドーヴイ古墳がよく知られている。とりわけサドーヴイ古墳出土の多色動物様式の金製馬具装飾はサルマタイばかりでなく、ピョートル大帝シベリア・コレクションの中にも類例が知られている。また、青銅製鍑も多数発見されている。鍑は前期サルマタイ時代から知られているが、この時代になると、さまざまな形態の鍑が登場している。主要な形式としては、胴部が卵形で、半円形の柄に突起が3つあり、垂直に立った柄の付け根から口縁部に口ひげ形の小さな突帯が連続するように付き、胴部の一番幅の広い部分に縄目を模した突帯がめぐるものであり、円錐台形の圏台がつくものと、圏台がないものとがある。また柄が動物形となるものもしばしば見られる。このような特徴的な資料は特にドン川流域を中心に分布しており、当時のサルマタイ文化の中心がこの地域にあったことを示唆している。一方、前期サルマタイ時代の中心地であった南ウラル地方ではこの時代にはサルマタイの埋葬址が減少しており、サルマタイが全体的に西に移動したことを示している。中期の埋葬の多くは先行する時代の古墳を利用した再利用墓であるが、一部は低平で比較的小規模な古墳を築いたものもある。埋葬儀礼は前代とほぼ同様であるいる。墳丘では木炭や灰の層と馬や牡羊の骨が検出され、また時折青銅製鍑が発見されることで、埋葬後に墓上で火を炊き家畜を生贄にして追悼宴が行われたことを物語っている。[18]
後期サルマタイ時代は1世紀に黒海北岸に登場したアラン(アラノイ)の民族名からアラン文化期と呼ばれる。後期サルマタイ時代の埋葬の特徴はヴォルガ・ドン地方では小規模な墳丘を築く円墳であるが、ウラル川流域ではその時代に新たに築いた東西に長い墳丘が見られる。墳丘下には小規模なポドボイ墓や幅の狭い方形墓壙が作られた。ポドボイでは入口坑の西壁に墓室が穿たれた。また、北カフカスでは地下式横穴墓が分布し、ドニェストル・ドナウ両河間では墳丘を築かない土壙墓が見られる。墓は旧地表面で丸太や木材、芝土、枝や葦で閉塞された。埋葬は単独葬が大半であり、仰臥伸展葬で北あるいは南を枕にした。ポドボイ墓や狭い墓壙では北枕が主流である。そして、この時代の最大の特徴は南ウラル地方、ヴォルガ川下流域、ヴォルガ・ドン両川間でみられる被葬者の頭骸変型である。頭骸変型は紀元前後から散発的にみられたが、この時代に非常に発展した風習である。一方、死者に供える家畜は肢などの一部のみである。また、墓では前時代同様に白亜の塊がみられたが、硫黄の塊や火打石を削った痕跡もしばしば検出された。墓に火を放った痕跡はすくなく、儀礼は簡素化されたとみなされている。副葬品は武器、道具、装飾品、化粧道具、香炉、護符などである。武器では環頭剣と短剣、鏃が見られ、剣は被葬者の左、短剣は右に置かれ、鏃は少数である。馬具は通例被葬者の足下に置かれた。装飾品としては帯飾板、フィブラ、頸飾りの一部として発見される小型柄鏡あるいは垂飾などがある。小型の柄鏡は前代から発展していたものであるが、この時代には鏡というよりも垂飾として使用されたと考えられている。土器は手捏ねろくろ製があり、後者はドン川やクバン川流域あるいはボスポロス王国で製作されたものである。動物形把手が付いたろくろ製水差型土器はこの時代に特徴的な資料である。また、ヴォルガ川左岸ではホラズム製の化粧土のかかった赤色土器が登場している。[23]
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