Remove ads
ウィキペディアから
ゴルカ朝(ネパール語:गोर्खा、英語:Gorkha dynasty)は、1559年から2008年5月28日まで続いたゴルカ王国及びネパール王国の王朝。ネパール最後の王朝でもある。王家の姓を取ってシャハ朝(ネパール語: शाह वंश śaāha vaṃśa、英: Shah dynasty)とも呼ばれる。英語読みではグルカ朝(Gurkha dynasty)と発音される。
1484年にラーヤ・マッラのバクタプル王国から、ラトナ・マッラのカトマンズ王国が独立。1619年にシッディナラシンハ・マッラのパタン王国が独立し、マッラ朝は三王国時代に入る。
16世紀、ヤショー・ブラフマ・シャハ(Yasho Brahma Shah)がカスキ王国(現カスキ郡)を征服した。
1559年、ヤショー・ブラフマの子、ドラヴィヤ・シャハ(Dravya Shah)がゴルカ王国を確立。当時、ネパールは多くの独立した小国に分かれており、ゴルカは二四諸国にも数えられないほどの小国であった[1]。
1743年、プリトビ・ナラヤン・シャハがゴルカ王(第10代)を継承、ネパール統一に乗り出す。1767年のキルティプルの戦い、1768年のカトマンズの戦いで、ネワール族のマッラ朝にゴルカ軍が勝利。同年9月、彼はネパール王に即位する[2]。
1814年、ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハの治世にグルカ戦争がネパールとイギリス東インド会社との間で勃発する。この戦いに敗れたネパールは、1816年、国土の1/3を失う[3]。
1846年、ラジェンドラ・ビクラム・シャハの治世、ゴルカ朝は宰相のラナ家に実権を奪われ、名ばかりの王家となる[4]。
ゴルカ朝がその実権を取り戻したのは1951年、トリブバン国王のときのことである[5]。亡命先から帰国したのち、初めて立憲君主制を採用した[4]。
1959年、マヘンドラ国王は憲法を公布してネパール初の総選挙を実施。選挙の結果ネパール会議派が大勝し、ビシュエシュワル・プラサード・コイララ内閣が誕生する[6]。しかし、改革を進めようとする内閣と、権力を維持したい国王は次第に対立を深め、1960年、マヘンドラ国王は憲法を停止して内閣・議会を解散、コイララ首相ら政党指導者を逮捕した(国王のクーデター)[7]。
1962年、マヘンドラ国王は政党の禁止などを定めた新憲法を公布。パンチャーヤト制と呼ばれる国王にきわめて有利な間接民主制が行われた。また、首相の任免は国王が行った[8]。
マヘンドラ国王は、1972年1月31日に死去した[9]。同日、マヘンドラ国王の長男のビレンドラが跡を継ぎ、国王に即位する。
1990年、民主化運動であるジャナ・アンドランの高まりに押されて、ビレンドラ国王は民主的憲法を制定し、直接選挙による国会、国会から選ばれる内閣を復活する[5]。この事により、ビレンドラは開明的君主として、国民の厚い信頼を得た。
2001年6月1日、ネパール王族殺害事件により、ビレンドラ国王はじめ多くのシャハ王家の構成員が死亡した。昏睡状態のディペンドラ皇太子が数日間王位についたが死亡し、叔父のギャネンドラが即位(重祚)した[10]。
2005年2月、ギャネンドラ国王は議会を解散し、政府の実権を掌握する。ギャネンドラ国王の親政はロクタントラ・アンドランによって2006年4月に終わり、ネパールの君主制と、ゴルカ朝の命運はネパール制憲議会に委ねられることが決まった。2007年12月24日、王制は制憲議会開会とともに廃止されると発表された。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.