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ケーニヒスベルク城(ドイツ語: Königsberger Schloss, ロシア語: Кёнигсбергский замок)とは、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現:ロシアのカリーニングラード州州都カリーニングラード)に存在した城である。
ケーニヒスベルク城(Königsberg Castle) | |
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1885年の写真 カリーニングラード州の位置 カリーニングラード(旧:ケーニヒスベルク)の位置 | |
座標 | 北緯54度42分36.78秒 東経20度30分38.84秒 |
種類 | 城・宮殿 |
施設情報 | |
現況 | 第二次世界大戦によって完全に破壊 |
第二次世界大戦で破壊され廃墟になった。1968年にソビエト連邦政府によって完全に破壊され、その後は「ソビエトの家」と呼ばれる建物が長い間建設中となっている。
プレゴリャ川が近くに流れ、交通の要衝であったこの場所には元々 Tuwangste と呼ばれるプルーセン人の砦が存在した。 1255年にドイツ騎士団によって侵略された後、この場所に土と木で臨時の砦が建造された。1257年に、石で作られた「Conigsberg」と呼ばれるオルデンスブルク様式の城が建造された。この城は16世紀から18世紀にかけて、幾度かの拡張と防御力の強化が行われた。
要塞は後に城に改築され、さらにドイツ騎士団総長の邸宅となり、そしてプロイセン支配者の邸宅となった。
1815年のブリタニカ百科事典には、「この豪華な宮殿には、柱を含めない大きさでは83.5 m X 18 mのホールがあり、見事な図書室が備えられている。ゴシック建築の塔は284段の階段を登ると高さが 100 mあり、とても遠くまで見渡せる」と記載されている。西側にはSchloßkirche(宮殿教会)があり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世らの戴冠式に使われた。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世からロシアのピョートル大帝に贈られた琥珀の間の装飾は、サンクトペテルブルク近郊プーシキンにあるエカテリーナ宮殿に移された。
1941年、ナチス・ドイツはプーシキンを占拠し、琥珀の間をケーニヒスベルク城に移したものの、その後行方不明となっている。
第二次世界大戦で破壊された跡地(堀側)には、「ソビエトの家」(愛称は「埋められたロボット」)という建物が、戦後から長い間建設中のまま放置されている。工期延長の理由は、高層ビルの建設に耐える強度が地盤に無く、沈下する為、計画変更されたからである。これは「プロイセン人の復讐」などと揶揄されている。そして、1980年代後半に95%近く完成していたが「ペレストロイカ」後に、民営化の検討、そして裁判による売却無効などの混乱で中止になった。
2011年11月30日、カリーニングラード州知事ニコライ・ツカノフは、ソビエトの家は「カリーニングラードの街の恥」であり、取り壊さねばならないとコメントしている。[要出典]
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