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ケン・カミニティ
アメリカ合衆国の野球選手 (1963-2004) ウィキペディアから
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ケネス・ジーン・カミニティ(Kenneth Gene Caminiti , 1963年4月21日 - 2004年10月10日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ハンフォード出身のプロ野球選手(三塁手)。右投両打(スイッチヒッター)。
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経歴
サンノゼのレイ高では野球の他にアメリカンフットボールやバスケットボールでも活躍。サンノゼ州立大学を経て、ヒューストン・アストロズに入団。
2年間のマイナーリーグでのプレイの後、1987年7月16日にメジャーデビュー。
1988年は再びマイナーで過ごして、メジャーでも30試合に出場。
1989年にはレギュラーに定着し、161試合に出場。以後アストロズでは1994年までプレイするが、最多でも18本塁打(1994年)、80打点(1991年)であった。
1994年にオールスター初出場を果たし、この頃から打球がよく伸びるようになった[1]。
1995年に12選手が絡む大規模なトレードでサンディエゴ・パドレスに移籍。いきなりこの年打率.302、26本塁打、94打点と活躍。守備面でも高い評価を受けてこの年から3年連続してゴールドグラブ賞を受賞。同僚のトニー・グウィンに比肩する打者と認められていたが、それだけに同年に最終的に達成できなかったもの対戦相手の投手であったペドロ・マルティネスに延長10回まで完全試合の結果を出されたことから「グウィンやカミニティさえも完ぺきなピッチングに翻弄された」と引き立て役となってしまうこともあった[2]。
そして1996年には打率.326、40本塁打、130打点の大活躍でナ・リーグMVPを満票で受賞[1]。シルバースラッガー賞も受賞した。2回目の出場となったオールスターでも本塁打を放った。また、この年には1試合両打席本塁打を8月中の3回を含め4回記録している。
1998年にはチームのワールドシリーズ出場に貢献。この年限りでフリーエージェント(FA)権を行使し、アストロズに復帰した。
しかし、故障もあって出場機会は激減。2001年にはテキサス・レンジャーズに移籍し、さらにシーズン途中でアトランタ・ブレーブスに移籍。この年限りで現役を引退した。
現役時代は慈善活動に力を入れており、チームの「65バラ(黒人に多く見られる血液の病気の名前)の会」の会長を務め、毎年8月には自らの名を冠したゴルフ・トーナメントを開催して病院に寄付していた[1]。
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薬物乱用と突然の死
現役時代からさまざまな問題を抱え、1994年にはアルコール使用障害に陥っていることを表明(2000年にリハビリ施設に入る)。
引退後、MVPを獲得した1996年を含む数年間にわたってステロイド剤を使用していたことをウォーリー・ジョイナー(パドレス時代のチームメイト)と共に告白。これによって薬物疑惑が沸騰し、メジャーリーグ機構はおろか議会まで巻き込む大問題に発展。
現役最晩年の2001年3月にはコカイン不法所持で逮捕され、執行猶予つきの有罪判決を受ける。2004年9月にはコカインの陽性反応を示し、10月5日にヒューストンの裁判所から執行猶予が停止され、懲役180日を宣告されたが、すでに刑期を勤めていたため釈放された。それからわずか5日後の10月10日、ニューヨーク・ブロンクスで心臓発作を起こし、リンカーン記念病院で急死。41歳。死後、11月1日に、ニューヨーク市警によって死因がコカインとアヘンによるオーバードースと発表された。
ステロイドの後遺症として1996年シーズン終了時には睾丸が縮んで萎縮し、ホルモンバランスも20%まで減退して体が女性化していた[3]と明かしており、これは死亡後の検視解剖によって実際に明らかになっている。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
- シーズンMVP:1回(1996年)
- シルバースラッガー賞:1回(1996年)
- ゴールドグラブ賞:3回(1995年-1997年)
- MLBオールスターゲーム選出:3回(1994年、1996年、1997年)
- プレイヤー・オブ・ザ・マンス:2回(1996年8月、9月)
背番号
- 11(1987年 - 1999年、2000年 - 2001年)
- 21(1995年 - 1998年)
脚注
関連項目
外部リンク
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