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ガイウス・アウレリウス・コッタ(ラテン語: Gaius Aurelius Cotta)は共和政ローマのプレプス(平民)出身の政務官。紀元前252年と紀元前248年にコンスル(執政官)を務め、第一次ポエニ戦争で軍の指揮を執った。紀元前241年にはケンソル(監察官)に就任している。
プレプスであるアウレリウス氏族の出身であり、父のプラエノーメン(第一名、個人名)はルキウス、祖父はガイウスで[1]、氏族初の執政官である[2]。
紀元前252年、同僚のパトリキ(伝統的貴族)プブリウス・セルウィリウス・ゲミヌスと共に執政官に就任した[3]。この頃は第一次ポエニ戦争の最中であり、両執政官は共同して海軍の作戦の指揮を執ることとなった。軍を率いてシキリア北岸のカルタゴ最後の拠点であったテルマエ・ヒメレンシスを占領し[4]、続いてアエオリア諸島のリパラに上陸、これを包囲した。その直後鳥占いのためにメッサナ戻る必要ができ、軍を親戚のトリブヌス・ミリトゥム(高級士官)であるプブリウス・アウレリウス・ペクニオラに委ねた。しかし、コッタの留守中にローマ軍野営地は焼き討ちにあい、軍全体が捕虜となる寸前となってしまったため、ペクニオラを鞭打ち刑に処し、さらに一兵士に降格させた[5][6]。その後すぐにリパラは陥落した。その年のうちにコッタはローマに帰還し、凱旋式を実施した[7]。シキリアでは、エクィテス(騎士階級)の一部が命令に従わなかったため、監察官に報告して降格させたエピソードが残っている[8]。
紀元前248年、二度目の執政官に就任、同僚執政官は前回と同じゲミヌスであった[9]。また翌年の執政官の一人はルキウス・カエキリウス・メテッルスで、E. Badianはアウレリウス氏族、セルウィリウス氏族、カエキリウス・メテッルス家の強い結びつきを示唆している。この関係は紀元前2世紀の終わりまで継続した[10]。
第一次ポエニ戦争は続いており、両執政官はシキリアでの作戦を実施したが、大きな成果は得られなかった。両国共に長引く戦争に疲弊しており、軍事行動も緩慢になっていた。カルタゴはリリュバエウムとドレパナから動かず、これを攻略できなかった[11]。
紀元前241年、監察官に就任、同僚はパトリキのマルクス・ファビウス・ブテオであった[12]。ケンスス(国勢調査)では、ローマの人口は、260,000[13]または250,000とされている[14]。位は執政官の方が上であるが、当時の慣習で監察官に就任できるのは執政官経験者であったため、実質的にはこれがコッタの最高職となった。
紀元前231年、ディクタトル(独裁官)ガイウス・ドゥイリウスのマギステル・エクィトゥム(副官)に指名されているが、戦争のためではなく選挙の管理のためであった[11][15]。
E. Badianは、コッタには二人の息子がいたと推定している。紀元前216年のレガトゥス(軍団副官)であったガイウス・アウレリウス・コッタ、同年のアエディリス(按察官)マルクス・アウレリウス・コッタで、ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前200年の執政官)は孫にあたる[16]。
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