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ドイツの映画監督、撮影監督、脚本家 (1890-1969) ウィキペディアから
カール・フロイント(Karl Freund、1890年1月16日 - 1969年5月3日)は、ドイツの撮影技師。担当した映画は100作以上に上る。
ユダヤ系の両親、グレイザー・ジュリアス・フロイントと妻マリーの間にボヘミアに生まれる。幼少時にベルリンへ移住し、15歳から映写技師として働き始めた。その後ニュース映画のカメラマンとしてキャリアを積み、1911年にアスタ・ニールセン主演「Heißes Blut」で初めて劇映画の撮影を務める。1920年代には「巨人ゴーレム」(1920)「最後の人」(1924)「メトロポリス」(1927)等の名作のカメラマンとして起用された。実験映画の「伯林 - 大都会交響楽」では監督ヴァルター・ルットマンと共同で脚本も担当している。
1929年にアメリカに渡り、「魔人ドラキュラ」(1931)から「キー・ラーゴ」(1948)まで多くの映画の撮影を担った。「魔人ドラキュラ」では監督のトッド・ブラウニングが仕事のやる気を失っていたため、いくつかのシーンはフロイントが演出を行ったという。[1]「大地」(1937)でアカデミー撮影賞を受賞。また1921年から35年の間に10本の長編映画を監督しており[2]、最も有名なものはボリス・カーロフ主演の「ミイラ再生」(1932)とピーター・ローレ主演「狂恋」(1935)の2本の怪奇映画である。
1951年、フロイントはデジ・アーナズから依頼を受け「アイ・ラブ・ルーシー」の撮影監督に就任。以降はテレビ業界で「Our Miss Brooks」[3]などシットコムの人気作をいくつか手がけた。
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