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カレッカ (Careca)ことアントニオ・デ・オリヴェイラ・フィーリョ (Antonio de Oliveira Filho1960年10月5日 - )は、ブラジルサッカー選手。日本では、カレカとも表記される。ちなみにカレカは禿げ頭の意味。禿げてもいない彼がこの名で呼ばれる理由は、彼がファンだったコメディアン、カレッキーニャに由来する[1]

概要 カレッカ, 名前 ...
カレッカ
Thumb
名前
本名 アントニオ・デ・オリヴェイラ・フィーリョ
Antonio de Oliveira Filho
愛称 カレカ
ラテン文字 CARECA
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1960-10-05) 1960年10月5日(64歳)
出身地 サンパウロ州アララクアラ
身長 179cm
体重 75kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足(利き手は左)
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1978-1982 ブラジルの旗 グアラニ 77 (46)
1983-1987 ブラジルの旗 サンパウロ 67 (54)
1987-1993 イタリアの旗 ナポリ 164 (73)
1993-1996 日本の旗 柏レイソル 60 (31)
1997 ブラジルの旗 サントス 9 (2)
1998 ブラジルの旗 バルエリ 10 (6)
1999 ブラジルの旗 サン・ジョゼ 2 (0)
通算 389 (212)
代表歴
1982-1993 ブラジルの旗 ブラジル 60 (30)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
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クラブ経歴

ブラジル時代

1976年にグアラニのユースに加入した[2]。翌1977年、16歳でトップチームの一員となる[2]。1978年にトップでのデビューを飾り[2]、この年、チームに初のタイトルをもたらすなど、ファンのアイドル的な選手となった[2]。1983年に移籍したサンパウロでは、2度目のボーラ・ジ・プラッタを獲得するなど、ブラジルを代表するFWに成長した[2]。サンパウロでの4年間、191試合で115得点を挙げた[2]。1984年にはインテルが獲得に動いたが残留した[3]

ナポリ

1987年からプレーしたナポリでは、ディエゴ・マラドーナらと共にナポリの黄金時代を築き、マラドーナ、ジョルダーノ、カレカの頭文字を合わせてマジカトリオを形成した[4]。特にマラドーナとはいいコンビネーションを見せ[5][6]、その後も続く良好な関係を築いた[7]

1987-88シーズンユヴェントス[2]レアル・マドリードも獲得に動いたが[5]ディエゴ・マラドーナと共にプレーすることを希望して、ナポリに加入[2]。デビュ―戦となった、コッパ・イタリアのグループリーグ初戦のモデナ戦でゴールを決めるデビューを飾った[2]。以降デビューから4試合で4試合連続ゴールを決めた[2]。セリエA初ゴールはデビュー2戦目、10月11日のペスカーラ[2][8]。このシーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、ベスト16でレアル・マドリードと対戦、怪我で1stレグを欠場したこともあって敗退した[2]

1988-89シーズン、11月20日のユベントス戦ではハットトリックの活躍[9]、このシーズンはリーグ戦で19得点を決め、得点ランキング1位のアルド・セレーナと3ゴール差で、ランク2位となった[2]UEFAカップでは大会最多の6ゴールで大会の優勝[10]、準決勝のバイエルン・ミュンヘン戦第1戦では1ゴール、第2戦では2ゴールを決め、決勝のシュトゥットガルト戦第1戦でゴールを決め、第2戦では1ゴール1アシストを決めてチームに優勝をもたらした。この頃ACミランから好条件のオファーを受けたが、マラドーナとの良好な関係から、残留することを選択した[7][11]

1989-1990シーズン、優勝のかかるボローニャ戦では、1ゴール1アシストを決めるなど、リーグ戦では、22試合で10得点を決め、セリエA制覇に貢献[2]。1990-91シーズン終盤、マラドーナが薬物使用で退団した後もナポリに残った。

1991-92シーズンは15ゴールを決め、セリエAで4位につけるなど[10]、チームに貢献していた[2]1992-93シーズンは1993年4月4日ACミラン戦では1ゴール1アシストを記録したが、様々な怪我を抱え、リーグ戦24試合で7得点に終わった[2]。契約期間終了によりナポリを退団、スペインやフランスのクラブからのオファーを検討していたが[12]、ブラジルへ帰国してのプレーを考えていた[13]

柏レイソル

1992年の時点では「Jリーグが成功していると感じられる状態でなければ、Jリーグのチームには移籍しないだろう。」と話していた[12]。1993年、ガンバ大阪と契約間近であったが[14]ゼ・セルジオからの誘いを受けたこと[13]、自身のみならず長女も日本の文化に興味を持っていたこともあり[12]、来季のJ1加入が認められるか不明な中、Jリーグの昇格を目指していたレイソルに加入した[15]。レイソル入団を決意するにあたり、Jリーグへの昇格を目指すレイソルでのプレーに集中するため、CBF(ブラジルサッカー協会)に正式に代表からの引退を申し入れた[12]。しかし実際にチームに来てみると、プロとしての環境が整っていないこと、選手たちのプロとしての姿勢がなっていないこと、フロントがサッカーを理解していないことに愕然とし、ミニゲームであっても勝利にこだわる意識をチームに浸透させるなど、プロとしての姿勢を示すと共に、フロントに様々な要求をしていった[13]。Jリーグカップでの決勝トーナメント進出(ベスト4入り)すればJリーグ加盟承認されるという条件の中[13]、デビュー2戦目9月14日のサンフレッチェ広島戦で移籍後初ゴールを含む2ゴールを記録し、4-3での勝利に貢献[16][17]、10月9日の鹿島アントラーズ戦、最終節のジェフ市原戦でも決勝ゴールを決め勝利に貢献[18]、6試合で4ゴールを挙げたが[16]、チームは得失点差で決勝トーナメント進出を逃し[13]、Jリーグへの加盟は認められなかった[15]。これにより退団も取りざたされた[13]。加入前、確実に来季はJリーグでプレー出来ると想定していたことから、移籍も考えたが、11月の終わり頃、ゼ・セルジオやチームに在籍していたブラジル人プレーヤーたちと話し合った結果、残留を決めた[12]

1994年、JFLで19ゴールを決める活躍で、柏レイソルJリーグ昇格に貢献した[4]。開幕戦のNTT関東との対戦で決勝ゴールを奪うと[19]、5月8日の甲府クラブ戦、5月12日の富士通戦、5月15日のセレッソ大阪戦と3試合連続ゴールを奪い、6月9日のNEC山形戦では4ゴールを決めた[19]。9月18日、昇格を争うライバル、藤枝ブルックス戦で決勝ゴールをアシスト、昇格をかけて厳しい戦いが続く中、10月5日のPJM戦で退場処分となり3試合の出場停止処分を受け、大切な時期に最終節まで出場出来なくなった。最終節、第30節のNTT関東との試合では決勝ゴールを決め勝利をもたらし、2位を確定させ、Jリーグに昇格した[15]。この試合のことを「ワールドカップの決勝で勝つよりも大事だと、一年間の全てを賭け、全身全霊をつぎ込んだ。」と後に話した[13]。同年8月7日、JFLオールスターゲームにEASTから出場、1ゴールを決めた[20]

1995年、1stステージ、4月5日、第6節名古屋グランパス戦でJ1初ゴールを決めた[16]。その後は怪我で欠場することも多かったが、2ndステージ、9月13日、第9節ジェフ市原戦でのゴールは、レイソルのJリーグにおけるチーム通算50点目のメモリアルゴールとなった[21]。第17節の横浜マリノス戦では2ゴールを決め、第20節名古屋グランパス戦、第22節鹿島アントラーズ戦でもゴールを決め[22]、怪我に苦しみながらも年間10ゴールと、一定の活躍をした[23]。Jリーグカップでは準決勝まで進出したが、ヴェルディ川崎に1-2と破れ決勝進出はならなかった[24]

1996年、怪我で多くの試合を欠場、第25節のセレッソ大阪戦で戦列に復帰、第27節の清水エスパルス戦でゴールを決めたが、その後は欠場して[25]、1996年11月9日の第30節のベルマーレ平塚とのホーム最終試合でプレーしゴールを決め[26]、(2020年8月現在、36歳1ヶ月4日で出場したこの試合での出場とゴールは、共にチームの最年長記録である[21]。)その試合を最後にレイソルを退団[23]。J1では35試合12ゴール、リーグカップでは13試合8ゴールの成績を残した[16]

在籍中は1995年にJリーグオールスターサッカーに選出された[27]。1998年にはラモス瑠偉の引退試合に、読売ラモスオールスターズの一員として出場した。

その後

その後、父親の希望でサントスで半年だけプレーした[28][10]、1998年に自らカンピーナスFCを設立し、短期プレー、退後は同クラブの監督も務めた[28]2005年イングランドのノンリーグのクラブであるガーフォース・タウンと契約し、1試合だけ現役復帰した。

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代表経歴

1982年3月21日、西ドイツとのフレンドリーマッチでブラジル代表デビュー[2]。セレソンのストライカーとしての活躍を期待されていたが、1982年、スペインW杯へと向かう4日前に怪我で離脱[2][1]。ワールドカップ後、初の試合となった1983年4月28日のチリ戦で代表初得点を挙げた。

1986年メキシコ大会ではグループステージのアルジェリアとの試合で1点、北アイルランドとの試合で2ゴールを決め、決勝トーナメント1回戦ポーランドとの試合、準々決勝戦フランスとの試合でそれぞれ1ゴール、計5ゴールを決める活躍であったが、得点王には1点届かず、また準々決勝戦でフランスの前に敗れ、ブラジル代表は優勝を逃した[29]

1990年大会にも出場、初戦のスウェーデン戦で2ゴールの活躍をしたが[10]、その後は無得点、チームも決勝トーナメント1回戦でアルゼンチンに敗れ早々に姿を消した[10]1993年USカップ英語版では3試合で2ゴールを決め、1994 FIFAワールドカップ・南米予選にも出場したが、8月1日のベネズエラ戦に出場した後、本大会まで数ヶ月と迫る中、様々な理由から自ら代表でのキャリアに終止符を打った[30]。代表通算62試合30ゴール。

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人物

フィジカルが強く、得点パターンが豊富で、利き足は右足だが、右足だけでなく、左足でも、頭でも多くの得点を奪った[2]

レイソル在籍時、大物ながら、決して偉そうにするところは無く、堅苦しいところもなく、人間味があり、ジーコの様に選手の私生活に口を出したり、味方がミスをしても怒ったりすることは無かったという[31]

1985年12月にミズノと契約を結ぶ。ブラジル代表のスター選手が日本のメーカーとの契約が大反響を呼び、翌1986年のワールドカップにてミズノのサッカースパイク「モレリア」を着用していた[32]。ミズノからは、カレカの名を冠したスパイクが多数発売された。カレッカによれば、ナポリでチームメイトだったディエゴ・マラドーナもカレッカが使用していたモレリアを気に入ったが、当時はプーマと契約していたため試合で履くわけにもいかず、練習でメーカー名やモデル名を隠してこっそり使用したこともあったという[33]

個人成績

さらに見る 国内大会個人成績, 年度 ...
国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1976グアラニ
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1983サンパウロ
1984
1985
19863125
198710
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1987-88ナポリ261375103418
1988-8930191021265227
1989-90221010612911
1990-9129961203812
1991-923315423717
1992-93247333110
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1993旧JFL1部-641175
19949旧JFL251911002620
1995-J3010-003010
1996526300115
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1997サントス92
1998カンピナス
1999サンジョゼ
通算ブラジル
イタリア
日本J 351263004115
日本旧JFL1部 251975113325
総通算
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代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 60試合 28得点(1982年-1993年)[34]
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ブラジル代表国際Aマッチ
出場得点
198240
1983115
198400
198573
1986117
198742
198800
198966
199073
199110
199220
199372
通算6028
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タイトル

脚注

関連項目

外部リンク

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