Loading AI tools
ポーランドのサッカー選手 ウィキペディアから
カジミエシュ・デイナ(ポーランド語: Kazimierz Deyna, 1947年10月23日 - 1989年9月1日)は、ポーランド出身の同国代表サッカー選手。ポジションはMF、FW。
| |||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
名前 | |||||||||||||||||
愛称 | カカ | ||||||||||||||||
ラテン文字 | Kazimierz Deyna | ||||||||||||||||
基本情報 | |||||||||||||||||
国籍 | ポーランド | ||||||||||||||||
生年月日 | 1947年10月23日 | ||||||||||||||||
出身地 | スタロガルド・グダンスキ | ||||||||||||||||
没年月日 | 1989年9月1日(41歳没) | ||||||||||||||||
身長 | 178cm | ||||||||||||||||
体重 | 76kg | ||||||||||||||||
選手情報 | |||||||||||||||||
ポジション | MF、FW | ||||||||||||||||
利き足 | 左足 | ||||||||||||||||
クラブ1 | |||||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | ||||||||||||||
1966 | ŁKSウッチ | 1 | (0) | ||||||||||||||
1966-1978 | レギア・ワルシャワ | 390 | (141) | ||||||||||||||
1978-1981 | マンチェスター・シティ | 38 | (12) | ||||||||||||||
1981-1987 | サンディエゴ・サッカーズ | 256 | (152) | ||||||||||||||
1987-1989 | レジェンズ・サンディエゴ | ||||||||||||||||
代表歴 | |||||||||||||||||
1968-1978 | ポーランド | 97 | (41) | ||||||||||||||
| |||||||||||||||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
地元のヴォクニアシュ・スタロガルド・グダンスキでサッカーを学び、1961年にŁKSウッチに入団して選手キャリアをスタートさせる。元々はFWの選手で、1968年にポーランド代表に選出されると、1972年ミュンヘンオリンピックでは9得点を上げ得点王に輝くと共に優勝に導いた[1]。
1974年のワールドカップ西ドイツ大会ではエースのヴォジミエシュ・ルバンスキが欠場した事で中盤に下がりゲームメイクを担当する事になった。大会に入ると、デイナの放つ鋭いロングパスからFWのグジェゴシ・ラトー、ロベルト・ガドハが俊足を飛ばす高速カウンターサッカーが見事に機能。1次リーグ最終戦、イタリア戦では、優勝候補の一角と目された強豪を相手に44分に決勝点をあげ[2]2-1で破る活躍を見せるなど、この大会の3位入賞の原動力となった。
ポーランド代表としては1978年のワールドカップアルゼンチン大会でもプレー。この年に代表から退くまで国際Aマッチ97試合に出場41得点を記録した。
クラブレベルでは1978年にイングランドのフットボールリーグ・ディビジョン1(当時の最上位リーグ)のマンチェスター・シティFCへ移籍。1981年からは北米サッカーリーグのサンディエゴ・サッカーズへ移籍し、1984年に同リーグが消滅後もインドアサッカーの選手としてアメリカに留まってプレーを続けていた。1989年9月1日、カリフォルニア州サンディエゴで自動車事故により死去。41歳没。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.