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エウジェニオ・ディ・サヴォイア (イタリア語: Eugenio di Savoia) は、イタリア王立海軍が第二次世界大戦で運用したエマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ級軽巡洋艦[1]。本艦は戦争を生き延びたが、賠償艦に指定される[2]。ギリシャ海軍へ譲渡されてエリと改名、1964年まで使用された[注釈 1]。
エウジェニオ・ディ・サヴォイア | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | アンサルド、ジェノバ造船所 |
運用者 |
イタリア王立海軍 ギリシャ海軍 |
艦種 | 嚮導巡洋艦 (軽巡洋艦) |
級名 | エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ型 |
艦歴 | |
起工 | 1933年7月6日 |
進水 | 1935年3月16日 |
就役 | 1936年1月16日 |
最期 | 1950年にギリシャに移籍 |
その後 | 1965年に退役、1973年に売却 |
要目 | |
基準排水量 | 8,450トン |
満載排水量 | 10,539トン |
全長 | 186.9 m m |
最大幅 | 17.5 m |
吃水 | 6.1 m |
ボイラー | ヤーロー式重油専焼水管缶6基 |
主機 | パーソンズ式(サヴォイアはベルッツォ式)ギヤード・タービン2基2軸推進 |
推進 | 2軸 |
出力 | 計画 110,000 hp |
速力 | 36.5 ノット |
航続距離 | 3,900 海里 / 14ノット |
乗員 | 578名 |
兵装 |
Models 1929 15.2cm(53口径)連装砲4基 Models 1924 10cm(47口径)連装高角砲3基 Models 1932 3.7cm(54口径)連装機関砲4基 Model 1931 13.2mm(75.7口径)連装機銃6基 53.3cm三連装魚雷発射管2基 |
装甲 |
舷側:70~105mm(水線部) 甲板:35mm 主砲塔:90mm(前盾) 主砲バーベット:100mm 司令塔:100mm |
搭載機 | 水上偵察機2機、カタパルト1基搭載 |
エウジェニオ・ディ・サボイアは、エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ級としても知られるコンドッティエリ級軽巡洋艦の第4グループに属していた。 エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ級の設計は、ライモンド・モンテクッコリ級軽巡洋艦を基礎にしており、排水量がわずかに増加し、装甲が大幅に強化されていた。内部機械も再配置されていた 。 エウジェニオ・ディ・サヴォイアはジェノヴァのアンサルド社によって建造され、サヴォイア=カリニャーノ公子エウジェーニオ・フランチェスコにちなんで名付けられた。
1937年2月中旬、 フランコ将軍が率いる反乱軍の支援のために、スペインのバルセロナ沖合に展開、市街地に艦砲射撃を加えた[注釈 2]。 この巡洋艦は第7巡洋艦隊に加わった。1938年になると、同戦隊司令官ソミグーリ提督の指揮下で姉妹艦「エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ」と世界周航航海をおこない[6]、その際に日本を訪問する予定であった[注釈 3]。だがズデーテン危機が勃発して国際情勢が緊迫化、8月31日のナポリ出発は延期される[注釈 4]。 11月にナポリを出発、カリブ海、南アメリカを訪れた[注釈 5]。 イタリア領事館の公式発表をもとにハワイ経由で日本訪問との報道もあったが[10][11]、実現せず1939年3月にラスペツィアに帰還した。7月中旬、チアノ外務大臣を乗せてフランコ政権下のスペインを訪問した[12][注釈 6]。
第二次世界大戦の間に、彼女は以下の作戦に参加した。
1941年5月1日と6月3日に他の巡洋艦と共にトリポリ沖へ機雷を敷設[14]。同年12月19日にイギリス海軍のK部隊がこの機雷原に突入し、軽巡洋艦ネプチューン (HMS Neptune, 20) と駆逐艦カンダハー (HMS Kandahar, F28) が沈没、軽巡2隻(オーロラ、ペネロピ)が大破するなどの被害を出している[15]
1942年12月4日に他の巡洋艦とともにナポリに停泊中、 B-24リベレーター爆撃機による爆撃を受け、ライモンド・モンテクッコリが大破、ムツィオ・アッテンドーロが沈没した[16][17]。 1943年のイタリア降伏後、本艦はスエズにおいて練習艦として使用された。
終戦後の1950年に戦争賠償としてイタリアからギリシャに移送された。 1951年に正式に編入され、船の名前は第一次バルカン戦争におけるエリの海戦(en:Naval Battle of Elli)と、宣戦布告前にイタリア王立海軍の潜水艦に撃沈された軽巡洋艦「エリ」の艦名を受け継ぎ[注釈 7]、エリ (Έλλη) に改名された。 エリは前任の装甲巡洋艦「イェロギオフ・アヴェロフ (Γεώργιος Αβέρωφ) 」に代わってギリシャ海軍の総旗艦となり、当時のギリシャ国王のパウロス1世 の御召艦として1952年6月にコンスタンティノープル 、1955年9月にユーゴスラビア 、1956年6月にトゥーロン 、1958年5月にレバノンを親善訪問した。 エリは1959年にクレタ島のスダ湾に移され、クレタ島及びイオニア海方面の海軍司令本部として使用された[21][22]。 1965年に退役し、海軍刑務所として使用された。 1967年から1974年までの軍事政権期間中、一部の海軍人が抵抗活動のかどでこの艦内に拘留された。 エリは1973年に売却された。
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