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ウォッチタワー作戦(ウォッチタワーさくせん, Operation Watchtower)は、第二次世界大戦前半においてアメリカ軍統合参謀本部が決定した対日反攻作戦の第1段作戦の名称である。望楼作戦と訳されることもある。
1942年3月14日、米軍統合参謀本部は大西洋・太平洋を巡る両洋作戦の基本方針を策定した。その中で太平洋方面では
が織り込まれた。このうちの米豪連絡線確保の予備行動としてオーストラリアに陸軍3個師団をサモア諸島を配下に置きフィジー島のスバ、ニューカレドニア島のヌーメアを連合軍の拠点とする一方で、トンガ諸島のトンガタプ島、ガダルカナル島の南東600浬のニューヘブリディーズ諸島エファテ島に策源地を築き、日本軍への戦略的反攻拠点を構築していった。
日本軍は1942年5月3日にツラギ島方面を占領・進出したが、5月4日~6日には米空母「ヨークタウン」の艦載機による空襲を受け、駆逐艦「菊月」擱座、貨物船1、掃海艇2を失い、他に駆逐艦「夕月」と敷設艦「沖島」が損傷を受ける損害を被ってしまう[1]。 珊瑚海海戦でポートモレスビーの攻略に失敗し、さらにミッドウェー海戦の敗北により、日本はニューカレドニア、フィジー、サモア諸島攻略を目指すFS作戦を延期し、ミッドウェー海戦の戦訓により強力な基地となるべき陸上基地主導でのフィジー・サモア攻略を目指すこととなる。横浜海軍航空隊が水上機基地を進出させたツラギ島の南方僅か12浬にあるソロモン諸島の小島、ガダルカナル島に飛行場適地があることは既にツラギの部隊から報告されていた。日本軍にとってツラギ島泊地は最前線の良港であったもののこの地域で航空優勢を確保するにはラバウル・ラエの両飛行場は遠すぎ、ツラギの水上機のみでは航空戦力として非力であった。そこでツラギ島泊地を利用し易くするためにも、将来のFS作戦の実施に際してもガダルカナル島の飛行基地建設は現地部隊にとって極めて切実な要求として伝えられ、6月中旬、「ソロモン諸島・ニューギニア島東部における航空基地獲得設営のための作戦(SN作戦)」として第4艦隊司令長官井上成美中将により発令され、ラバウル飛行場の拡張やラエ飛行場、カビエン飛行場の建設とともに、1942年8月15日までにガダルカナル飛行場を利用可能とすることとされた。
アメリカは対日反攻計画の策定を進めていたが、ミッドウェー海戦の勝利の後の6月25日、海軍作戦部長アーネスト・キング大将は太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将とロバート・ゴームレー中将(南太平洋部隊海軍指揮官)に海兵隊によるサンタクルーズ諸島、ツラギ、その周辺島嶼への占領確保のための作戦準備を命じた。しかし、肝心のアレクサンダー・ヴァンデグリフト少将率いる第1海兵師団は7月11日まで到着完了せず、さらに統合参謀本部内でも陸軍参謀総長マーシャル大将が作戦の指揮権を巡ってキングと争っている状況だった。指揮権は東経159度以東はニミッツ大将、以西はマッカーサー大将が持つことに決定し、ウォッチタワー作戦は7月2日に次のようにして第3段作戦までが発令された。作戦開始日は8月1日の予定であったが、作戦の準備中にガダルカナル島で日本軍が建設中の飛行場を発見したため、ガダルカナル島の攻略も同時に行うことになった。ガダルカナル島が追加となったので、その準備のため作戦の実施は少し遅らせて8月7日に決定された[2]。
8月7日早朝のガダルカナル島上陸は戦略的奇襲となり、大きな抵抗無く米軍はガダルカナル島の飛行場用地を奪取した。また、ツラギ島では極めて熾烈な戦闘が行われたが、8月8日までに同島は海兵隊挺身大隊によって占領された。ガダルカナル島とツラギ泊地の失陥は日本軍にとって初めての占領地の喪失であり、即座に反撃が行われることとなり、同島を巡る日米両軍の戦いは翌1943年2月に至るまで続けられることとなった。
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