イーヴリン・ド・モーガン
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イーヴリン・ド・モーガン(Evelyn De Morgan, 1855年8月30日 – 1919年5月2日)は、イギリスのラファエル前派の画家。
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経歴
旧姓はイーヴリン・ピカリング(Evelyn Pickering)。両親ともに上位中流階級の出で、父パーシヴァル・ピカリングQC(勅選弁護士)はポンテフラクトの刑事法院臨時裁判官。母アンナ・マリア・ウィルヘルミナ・スペンサー・スタンホープは美術家ジョン・ロダム・スペンサー・スタンホープの姉妹で、ノーフォークのレスター伯トーマス・コークの子孫にあたる。
15歳の時、ホームスクーリングでスケッチのレッスンを受けはじめた。17歳の誕生日の朝、イーヴリンは日記にこう記している。「芸術は永遠、でも人生は短い……」。「今それを埋め合わせしよう。私には無駄な時間はない」。イーヴリンは美術学校に行かせてもらえるよう、両親を説得しだした。両親は最初それを拒んだが、1873年、ようやく許しを得て、イーヴリンはスレイド美術学校に入学することができた。叔父ジョン・ロダム・スペンサー・スタンホープも画家で、イーヴリンに多大な影響を与えた。イーヴリンは叔父の住んでいたフィレンツェをたびたび訪れたが、そこでルネサンスの巨匠たちを研究することもできた。ことにイーヴリンが愛したのはサンドロ・ボッティチェッリだった。その影響でイーヴリンはスレイド美術学校が好む古典的なテーマから離れ、彼女独自のスタイルを作ることになった。
1887年に、イーヴリンは陶芸家のウィリアム・ド・モーガン(William De Morgan)と結婚し、ロンドンで暮らした。1917年に夫が先立ち、その2年後の1919年5月2日、イーヴリンはロンドンで亡くなった。遺体はサリー州ウォキング近郊のブロックウッド墓地に葬られた。[1]
ギャラリー
→詳細は「イーヴリン・ド・モーガンの作品一覧」を参照
- 『夜と眠り』1878年
- 『アウロラの勝利』1877年–1878年
- 『海の乙女たち』1885年-1886年
- 『機会の庭』1892年
- 『執着』1897年
- 『悲嘆者たち』1910年-1916年
- 『カドモスとハルモニア』1877年
- 『ドライアド』1884年-1885年
- 『メディア』1889年
- 『エオス』1895年
- 『闇の中の光』1895年
- 『ボレアスとオレイテュイア』1896年
- 『カッサンドラ』1898年
- 『トロイのヘレネ』1898年
- 『恋の秘薬』1903年
- 『砂時計』1905年
- 『SOS』1914年-1916年
- 『霧の娘たち』1900年-1919年
脚注
外部リンク
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