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チェコのサッカー選手、監督 ウィキペディアから
イワン・ハシェック(Ivan Hašek, 1963年9月6日 - )は、チェコスロバキア(現チェコ)・中央ボヘミア州ミェステツ・クラーロヴェー出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。元チェコスロバキア代表及びチェコ代表。現役時代のポジションは主にMF(セントラルミッドフィールダー)。
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サンテティエンヌ監督時代(2006年) | ||||||
名前 | ||||||
ラテン文字 | Ivan Hašek | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | チェコ | |||||
生年月日 | 1963年9月6日(61歳) | |||||
出身地 | ミェステツ・クラーロヴェー | |||||
身長 | 176cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF / MF / FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1970-1977 | ニンブルク | |||||
1977-1981 | スパルタ・プラハ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1981-1990 | スパルタ・プラハ | 221 | (58) | |||
1990-1994 | ストラスブール | 74 | (27) | |||
1994-1995 | サンフレッチェ広島 | 55 | (30) | |||
1996 | ジェフユナイテッド市原 | 28 | (12) | |||
1996-1998 | スパルタ・プラハ | 18 | (5) | |||
通算 | 396 | (132) | ||||
代表歴2 | ||||||
1984-1993 | チェコスロバキア | 54 | (5) | |||
1994 | チェコ | 1 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1998-1999 | チェコ(アシスタント) | |||||
1999-2001 | スパルタ・プラハ | |||||
2001-2003 | ストラスブール | |||||
2004 | ヴィッセル神戸 | |||||
2005 | アル・ワスル | |||||
2006-2007 | サンテティエンヌ | |||||
2007-2009 | アル・アハリ | |||||
2009 | チェコ | |||||
2011 | アル・アハリ | |||||
2012 | アル・ヒラル | |||||
2014 | カタールSC | |||||
2014-2016 | フジャイラー | |||||
2016-2017 | エミレーツ・クラブ | |||||
2018-2019 | フジャイラー | |||||
2021-2022 | レバノン | |||||
2024- | チェコ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2020年6月22日現在。 2. 2006年11月16日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
チェコ語により近い表記はイヴァン・ハシェク(チェコ語発音: [ˈɪvan ˈhaʃɛk])。チェコやフランスでの現役時代は主にセントラルミッドフィールダーとしてプレーした。一方代表ではリベロからFWまでGK以外ならどこでもこなせるユーティリティープレイヤーとして起用され、イタリアW杯では攻撃的な右サイドバックとして起用された。一方、JリーグではFWを担当[1]。ポストプレーがうまく空中戦にも長け、高い得点能力を持つ選手として知られている[2]。2009年から2年間、チェコサッカー協会会長を務めた[3]。
1970年から地元のクラブチームであるZOMニンブルクでユース年代を過ごし、1977年にACスパルタ・プラハへ移籍[4]。1981-82シーズンにリーグ戦デビューし長く主力として活躍、1987年から2年連続でチェコスロバキア年間最優秀選手に輝く。
1990年、フランス・リーグ・ドゥのRCストラスブールへ移籍し主力として活躍[4]、クラブのリーグ・アン昇格に貢献し英雄として称えられた。ストラスブール退団後も地元では暫く「ハシェックのチームであるストラスブール」と呼ばれていたほどである。
1994年、Jリーグ・サンフレッチェ広島へ入団[4]。高木琢也と2トップを組みパベル・チェルニー、盧廷潤ら攻撃陣と活躍し、1994年5月18日サントリーステージ17節・ヴェルディ川崎戦でチーム初のハットトリックを決め[5]、首位を争っていた第19節の清水エスパルスとの直接対決では高木琢也の2ゴールをアシストして勝利に貢献するなど[6]、同年のファーストステージ制覇に大きく貢献した。この年に挙げたシーズン19得点は、2012年に佐藤寿人が更新するまでクラブのJ1シーズン最多得点記録であった。1995年4月12日の第8節・名古屋グランパス戦でもハットトリックを達成した[5]。同年はハウストラ、ファンルーン、盧と4人の外国人が在籍していたため、外国人枠の関係でビム・ヤンセン監督によりメンバー外とされることもあった。
1996年からはジェフユナイテッド市原に移籍し[4]、シーズン途中までの在籍ながら12得点を記録。その後は古巣のスパルタ・プラハへ戻り、1997年に現役を引退した。現役時代のキャリアにおいて、スパルタでは7度の優勝に貢献した。
2023年9月16日のJ1、第27節サンフレッチェ広島対ヴィッセル神戸戦にゲストとして来場、ミニトークショーを行った[7]。
1983年にU-20チェコスロバキア代表としてワールドユース・メキシコ大会に出場、1984年にはA代表に初招集。1990年、イタリアW杯では主将を務め5試合1得点、W杯ベスト8に貢献した。右サイドバックながら非常に攻撃参加が多く、ヘディングシュート数は大会全出場選手の中で最多であった。ビロード離婚後の1994年にはチェコ代表としても招集されている。
引退翌年の1998年にスパルタでスポーツディレクターを務めると、ヨゼフ・ホヴァネツ監督の下でチェコ代表のアシスタントコーチに就任。その後はいずれも選手時代に在籍したスパルタやストラスブールで監督を歴任した[4]。
2004年、三木谷浩史をオーナーに迎えたヴィッセル神戸の監督に就任するものの[4]、成績不振により1シーズン持たずして解任される[8]。
2005年にはチェコサッカー協会会長に立候補するものの敗れている。同年から1シーズンのみUAEリーグのアル・ワスルFCで監督を務めた[4]。
2006年4月末、古巣である広島からオファーが届き本人も承諾する意向であった。しかし再び離れて暮らすことに家族が反対し、監督就任とはならなかった[9]。
2006-07シーズンは、リーグアン・ASサンテティエンヌで監督を務める[4]。2007年12月からUAEリーグのアル・アハリに招聘され再びUAEで指揮を執る[4]。2008-09シーズンにリーグ優勝を達成するが退任することを表明した。
2009年6月、再びチェコサッカー協会会長に立候補すると会長に選出された。翌月からは暫定で監督を務めていたフランティシェック・ストラカの後を受け、チェコ代表の監督も兼任した。カレル・ブリュックナーがアドバイザーを務め、2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選の残り3試合を指揮するも[10]、本大会出場には届かなかった。この期間、会長としては協会の財政改善に貢献する[4]。2011年の年次総会で代表監督に専念するため辞任することを表明した[4]。
2011年6月からアル・アハリ監督に復帰した[4]。翌2011-12シーズン、リーグ開始から3試合で1勝2敗と出遅れたことに加え、同年11月3日に行われたガルフ・クラブ・チャンピオンズカップ決勝第2戦で敗戦し準優勝に終わった責任を問われ解任された[11][12]。
2012年1月、サウジ・プロフェッショナルリーグのアル・ヒラル監督に就任した[13]。
2014年7月、カタールSCの監督に就任することが発表された[14]。
2016年12月29日、エミレーツ・クラブとシーズンいっぱいまでの契約を締結した[15]。2018年6月20日、フジャイラーSCの指揮官に再任される。ディエゴ・マラドーナの後任として1年契約を締結した[16]。
非常に勉強熱心な人物としても知られている。プラハ・カレル大学法学部卒業、弁護士の資格を取得している[4]。また数ヶ国に亘る言語を操ることが出来る。
息子であるパヴェルとイワンもサッカー選手。元アイスホッケー選手のドミニクと元サッカー選手のマルティン・ハシェック兄弟は従兄弟にあたる。
母国では日本食レストランを経営している[2]。
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
チェコスロバキア | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1981-82 | スパルタ・プラハ | 1部 | 14 | 1 | |||||||
1982-83 | 24 | 3 | |||||||||
1983-84 | 28 | 3 | |||||||||
1984-85 | 20 | 3 | |||||||||
1985-86 | 22 | 6 | |||||||||
1986-87 | 30 | 10 | |||||||||
1987-88 | 30 | 4 | |||||||||
1988-89 | 26 | 13 | |||||||||
1989-90 | 27 | 15 | |||||||||
フランス | リーグ戦 | F・リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
1990-91 | ストラスブール | 2部 | 29 | 10 | |||||||
1991-92 | 28 | 10 | |||||||||
1992-93 | 1部 | 12 | 3 | ||||||||
1993-94 | 15 | 4 | |||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1994 | 広島 | - | J | 32 | 19 | 1 | 0 | 3 | 1 | 36 | 20 |
1995 | 23 | 11 | - | 0 | 0 | 23 | 11 | ||||
1996 | 市原 | 28 | 12 | 14 | 6 | 1 | 0 | 43 | 18 | ||
チェコ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1996-97 | スパルタ・プラハ | 1部 | 14 | 3 | |||||||
1997-98 | 4 | 2 | |||||||||
通算 | チェコスロバキア | 1部 | 225 | 58 | |||||||
フランス | リーグ・アン | 27 | 7 | ||||||||
フランス | リーグ・ドゥ | 47 | 20 | ||||||||
日本 | J | 83 | 42 | 15 | 6 | 4 | 1 | 102 | 49 | ||
チェコ | 1部 | 18 | 5 | ||||||||
総通算 | 400 | 132 |
その他の公式戦
チェコスロバキア代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1984 | 1 | 0 |
1985 | 7 | 0 |
1986 | 8 | 0 |
1987 | 7 | 1 |
1988 | 10 | 2 |
1989 | 8 | 0 |
1990 | 11 | 1 |
1991 | 2 | 1 |
1992 | 0 | 0 |
1993 | 3 | 1 |
通算 | 57 | 6 |
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