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イワン・ハシェック

チェコのサッカー選手、監督 ウィキペディアから

イワン・ハシェック
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イワン・ハシェックIvan Hašek, 1963年9月6日 - )は、チェコスロバキア(現チェコ)・中央ボヘミア州ミェステツ・クラーロヴェー出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。元チェコスロバキア代表及びチェコ代表。現役時代のポジションは主にMF(セントラルミッドフィールダー)。

概要 イワン・ハシェック, 名前 ...
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人物

チェコ語により近い表記はイヴァン・ハシェクチェコ語発音: [ˈɪvan ˈhaʃɛk])。チェコやフランスでの現役時代は主にセントラルミッドフィールダーとしてプレーした。一方代表ではリベロからFWまでGK以外ならどこでもこなせるユーティリティープレイヤーとして起用され、イタリアW杯では攻撃的な右サイドバックとして起用された。一方、JリーグではFWを担当[1]。ポストプレーがうまく空中戦にも長け、高い得点能力を持つ選手として知られている[2]。2009年から2年間、チェコサッカー協会会長を務めた[3]

クラブ経歴

1970年から地元のクラブチームであるZOMニンブルクでユース年代を過ごし、1977年にACスパルタ・プラハへ移籍[4]。1981-82シーズンにリーグ戦デビューし長く主力として活躍、1987年から2年連続でチェコスロバキア年間最優秀選手に輝く。

1990年、フランス・リーグ・ドゥRCストラスブールへ移籍し主力として活躍[4]、クラブのリーグ・アン昇格に貢献し英雄として称えられた。ストラスブール退団後も地元では暫く「ハシェックのチームであるストラスブール」と呼ばれていたほどである。

1994年、Jリーグサンフレッチェ広島へ入団[4]高木琢也と2トップを組みパベル・チェルニー盧廷潤ら攻撃陣と活躍し、1994年5月18日サントリーステージ17節・ヴェルディ川崎戦でチーム初のハットトリックを決め[5]、首位を争っていた第19節の清水エスパルスとの直接対決では高木琢也の2ゴールをアシストして勝利に貢献するなど[6]、同年のファーストステージ制覇に大きく貢献した。この年に挙げたシーズン19得点は、2012年に佐藤寿人が更新するまでクラブのJ1シーズン最多得点記録であった。1995年4月12日の第8節・名古屋グランパス戦でもハットトリックを達成した[5]。同年はハウストラ、ファンルーン、盧と4人の外国人が在籍していたため、外国人枠の関係でビム・ヤンセン監督によりメンバー外とされることもあった。

1996年からはジェフユナイテッド市原に移籍し[4]、シーズン途中までの在籍ながら12得点を記録。その後は古巣のスパルタ・プラハへ戻り、1997年に現役を引退した。現役時代のキャリアにおいて、スパルタでは7度の優勝に貢献した。

2023年9月16日のJ1、第27節サンフレッチェ広島対ヴィッセル神戸戦にゲストとして来場、ミニトークショーを行った[7]

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代表経歴

1983年にU-20チェコスロバキア代表としてワールドユース・メキシコ大会に出場、1984年にはA代表に初招集。1990年、イタリアW杯では主将を務め5試合1得点、W杯ベスト8に貢献した。右サイドバックながら非常に攻撃参加が多く、ヘディングシュート数は大会全出場選手の中で最多であった。ビロード離婚後の1994年にはチェコ代表としても招集されている。

指導者歴

引退翌年の1998年にスパルタでスポーツディレクターを務めると、ヨゼフ・ホヴァネツ英語版監督の下でチェコ代表のアシスタントコーチに就任。その後はいずれも選手時代に在籍したスパルタやストラスブールで監督を歴任した[4]

2004年、三木谷浩史をオーナーに迎えたヴィッセル神戸の監督に就任するものの[4]、成績不振により1シーズン持たずして解任される[8]

2005年にはチェコサッカー協会会長に立候補するものの敗れている。同年から1シーズンのみUAEリーグアル・ワスルFCで監督を務めた[4]

2006年4月末、古巣である広島からオファーが届き本人も承諾する意向であった。しかし再び離れて暮らすことに家族が反対し、監督就任とはならなかった[9]

2006-07シーズンは、リーグアン・ASサンテティエンヌで監督を務める[4]。2007年12月からUAEリーグのアル・アハリに招聘され再びUAEで指揮を執る[4]。2008-09シーズンにリーグ優勝を達成するが退任することを表明した。

2009年6月、再びチェコサッカー協会会長に立候補すると会長に選出された。翌月からは暫定で監督を務めていたフランティシェック・ストラカの後を受け、チェコ代表の監督も兼任した。カレル・ブリュックナーがアドバイザーを務め、2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選の残り3試合を指揮するも[10]、本大会出場には届かなかった。この期間、会長としては協会の財政改善に貢献する[4]。2011年の年次総会で代表監督に専念するため辞任することを表明した[4]

2011年6月からアル・アハリ監督に復帰した[4]。翌2011-12シーズン、リーグ開始から3試合で1勝2敗と出遅れたことに加え、同年11月3日に行われたガルフ・クラブ・チャンピオンズカップ決勝第2戦で敗戦し準優勝に終わった責任を問われ解任された[11][12]

2012年1月、サウジ・プロフェッショナルリーグアル・ヒラル監督に就任した[13]

2014年7月、カタールSCの監督に就任することが発表された[14]

2016年12月29日、エミレーツ・クラブとシーズンいっぱいまでの契約を締結した[15]。2018年6月20日、フジャイラーSCの指揮官に再任される。ディエゴ・マラドーナの後任として1年契約を締結した[16]

2021年7月16日、レバノン代表監督に就任[17]

2024年1月4日、チェコ代表監督に就任[18]

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人物

非常に勉強熱心な人物としても知られている。プラハ・カレル大学法学部卒業、弁護士の資格を取得している[4]。また数ヶ国に亘る言語を操ることが出来る。

息子であるパヴェル英語版イワン英語版もサッカー選手。元アイスホッケー選手のドミニクと元サッカー選手のマルティン・ハシェック英語版兄弟は従兄弟にあたる。

母国では日本食レストランを経営している[2]

個人成績

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その他の公式戦

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代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 58試合 6得点(1984年-1994年)[19]
さらに見る チェコスロバキア代表, 国際Aマッチ ...
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タイトル

現役時代

スパルタ・プラハ

指導者時代

スパルタ・プラハ
アル・アハリ
アル・ヒラル

個人

  • チェコスロバキア年間最優秀選手 : 1987, 1988[20]

脚注

関連項目

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外部リンク

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