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スペインの村 ウィキペディアから
ア・ラマ (A Lama) は、スペイン、ガリシア州、ポンテベドラ県の自治体、コマルカ・デ・ポンテベドラに属する。ガリシア統計局によると、2012年の人口は2,918人(2011年:2,976人、2010年:2,966人、2009年:3,001人、2004年:2,905人、2003年:2,957人)[1]。住民呼称は、男女同形のlamense。カスティーリャ語表記は、定冠詞をカスティーリャ語に変えたLa Lama。
ガリシア語話者の自治体人口に占める割合は92.88%(2001年)。
ア・ラマはポンテベドラ県の中部に位置し、コマルカ・デ・ポンテベドラに属する。隣接する自治体は、北がコトバーデ、フォルカレイ、東がベアリス、アビオン(ともにオウレンセ県)、南がフォルネーロス・デ・モンテス、西がポンテ・カルデーラスである。自治体中心地区はア・ラマ教区のア・ラマ地区[2]。
ア・ラマはポンテベドラ司法管轄区に属す[3]。
ア・ラマの人口推移 1900-2010 |
出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[4]、1996年 - [5] |
自治体内にはポルテーラ・ダ・クルス、オ・セイショ、オ・スイード、アンタスなどに古墳など巨石文化時代の遺跡が残されている。
また、青銅器時代のものとみられる剣や、カストロ・デ・ガシャーテではいくつもの青銅製の斧も発見されている。チャン・ド・カンポ、オウテイロ・セイシーニョ、バル・ド・ガト、ラシャ・ダス・プサスなどでは、ペトログリフも発見されている。カストロについては3ヵ所発見されている。
中世には、北部地域は15世紀以降アルメンテイラ修道院(Mosteiro de Santa María de Armenteira)の支配をうけ、残りの地域はソウトマイヨールの領主の所領であった。
17世紀から18世紀にかけて、アメリカ植民地からもたらされた、トウモロコシ、そしてジャガイモによって、人口が増加、牧畜業も増大した。この農業の変革は夏期の小麦の収穫期においてカスティーリャ地方への季節労働移民を引き起こすこととなった。そして、多くの道が整備され、教会、館、橋がたてられた。この時代にリバダビア、ポンテベドラ、リニャーレスと続く旧街道に、パラーダ川にかかる橋が作られた。
19世紀から20世紀の新大陸アメリカへの移民は、上流階級からその所有していた土地を買い、教育のための施設を整備することを可能にした。
自治体首長はガリシア国民党(PPdeG)のホルヘ・カンダ・マルティネス (Jorge Canda Martínez) 、自治体評議員はガリシア国民党:8、ガリシア社会党(PSdeG-PSOE):2、ガリシア民族主義ブロック(BNG):1となっている(2011年5月22日の自治体選挙結果、得票順)[6]。
首長当選者:ホルヘ・カンダ・マルティネス(PSdeG-PSOE) |
首長当選者:ホルヘ・カンダ・マルティネス(PPdeG) |
首長当選者:ホルヘ・カンダ・マルティネス(PPdeG) |
首長当選者:ホルヘ・カンダ・マルティネス(PPdeG) |
ア・ラマは10の教区に分けられる。太字は自治体中心地区のある教区[2]。
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