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アメリカのバスケットボール選手 (1922-2001) ウィキペディアから
アンドリュー・マイケル・フィリップ (Andrew Michael Phillip, 1922年3月7日 - 2001年4月29日) は、アメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手、指導者。身長188cm、体重88kg。ポジションはポイントガード及びシューティングガード。1950年代のNBAを代表する名選手であり、1961年にバスケットボール殿堂入りを果たした。
故人 | |
---|---|
ポジション | PG/SG |
基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1922年3月7日 |
没年月日 | 2001年4月29日(79歳没) |
出身地 | イリノイ州グラナイトシティ |
身長(現役時) | 188cm (6 ft 2 in) |
体重(現役時) | 88kg (194 lb) |
キャリア情報 | |
出身 | イリノイ大学 |
ドラフト | 1947年 5巡目 |
選手経歴 | |
1947-1950 1950-1952 1952-1956 1956-1958 |
シカゴ・スタッグズ フィラデルフィア・ウォリアーズ フォートウェイン・ピストンズ ボストン・セルティックス |
指導者経歴 | |
1958 | セントルイス・ホークス |
受賞歴 | |
| |
Stats Basketball-Reference.com | |
アンディ・フィリップことアンドリュー・マイケル・フィリップはイリノイ大学でプレイ。フィリップ擁する同校のバスケットチームは"Whiz Kids"(神童たち)と呼ばれ、カレッジバスケ界を席巻。1942年と1943年のビッグ・テン・カンファレンスのタイトルを制し、1942-43シーズンは無敗を誇った。
大学卒業後、1947年のBAAドラフトでシカゴ・スタッグズから指名を受けてBAA(NBAの前身)入りを果たした。3年目の1949-50シーズンには11.7得点5.8アシストを記録し、平均アシスト数ではリーグ1位となった(当時のアシスト王は通算で決められていた)。スタッグズでは3シーズンプレイし、その間チームは一度も勝率5割を下回ったことがなかったが、興行不振が響き、1950年には解散の憂き目に遭った。フィリップはフィラデルフィア・ウォリアーズに移籍することになった。
新天地でもフィリップは優秀な司令塔として活躍し、通算414アシスト(平均6.3アシスト)を記録して初のアシスト王に輝き、オールスターにも初選出される。当時低迷していたウォリアーズもフィリップにエースのジョー・ファルクス、新人ポール・アリジンの強力なトリオが完成し、このシーズンは40勝26敗を記録する大躍進を見せた。翌1951-52シーズンには2位以下を大きく引き離す539アシスト(平均8.2アシスト)を記録し、2年連続のアシスト王に君臨するも、翌シーズンのウォリアーズは開幕から大不振に陥り、フィリップはシーズン中盤でフォートウェイン・ピストンズに移籍することになった。
この時点でフィリップの年齢はすでに30歳を越えていたが、名プレイメーカーぶりは変わらず、フィリップ加入と共に少しずつ成績を上げ始めたピストンズは、1954-55シーズンには43勝29敗の好成績を記録し、プレーオフも勝ち抜いてファイナルに進出した。ファイナルではシラキュース・ナショナルズと対決し、シリーズは最終第7戦までもつれたが、92-91の1点ビハインドで迎えた第7戦試合終盤、逆転を狙うピストンズはフィリップがボールを運んだが、ナショナルズのジョージ・キングにボールを奪われてしまい、ピストンズはフィリップの痛恨のターンオーバーで敗れ、優勝は叶わなかった。なお、この第7戦は賭博に絡んだ八百長疑惑が持ち上がっており、最後にナショナルズにボールを与えてしまったフィリップにも、その嫌疑が掛けられている。ピストンズは翌シーズンもファイナルに進出するが、今度はフィラデルフィア・ウォリアーズに敗れた。
すでに33歳を迎えたフィリップは引退しようとしていたが、ボストン・セルティックスの名将レッド・アワーバックに熱心に口説かれ、セルティックス入りを決意した。セルティックスではボブ・クージーらの控えとしてプレイし、そして1957年のセルティックスの初優勝に大きく貢献した。念願のチャンピオンリングを手に入れたフィリップは、もう1シーズンだけプレイして、1958年に現役から退いた。
11シーズンに及ぶBAA/NBAキャリア通算成績は701試合に出場し、6,484得点(平均9.1得点)3,759アシスト(平均5.4アシスト)だった。
フィリップは同時代における最高のプレイメイカーの一人と言われ、NBAにおいてポイントガードという概念の確立に大きく貢献した選手だった。特にボールハンドリングとパスに非凡な才能を発揮し、しばしばボブ・クージーやディック・マグワイアらと比較された。シーズン通算500アシストを達成した初のNBA選手である。
* | リーグ1位 |
太字 | キャリアハイ |
NBAチャンピオン |
Season | Team | GP | MPG | FG% | FT% | RPG | APG | PPG |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1947-48 | CHS | 32 | – | .336 | .583 | – | 2.3 | 10.8 |
1948-49 | 60 | – | .348 | .676 | – | 5.3 | 12.0 | |
1949-50 | 65 | – | .349 | .704 | – | 5.8* | 11.7 | |
1950-51 | PHW | 66 | – | .399 | .751 | 6.8 | 6.3* | 11.2 |
1951-52 | 66 | 44.4 | .366 | .753 | 6.6 | 8.2* | 12.0 | |
1952-53 | 13 | 41.8 | .387 | .763 | 5.2 | 8.5 | 11.8 | |
FTW | 57 | 37.7 | .400 | .729 | 5.0 | 10.0 | ||
1953-54 | 71 | 38.1 | .375 | .730 | 3.7 | 6.3 | 10.6 | |
1954-55 | 64 | 36.4 | .371 | .692 | 4.5 | 7.7 | 9.6 | |
1955-56 | 70 | 29.7 | .365 | .563 | 3.7 | 5.9 | 5.8 | |
1956-57 | BOS | 67 | 22.0 | .379 | .642 | 2.7 | 2.5 | 4.4 |
1957-58 | 70 | 16.6 | .355 | .592 | 2.3 | 1.7 | 3.4 | |
Career | 701 | 32.3 | .368 | .695 | 4.4 | 5.4 | 9.1 | |
All-Star | 5 | 28.3 | .484 | .800 | 5.0 | 6.2 | 6.8 |
Year | Team | GP | MPG | FG% | FT% | RPG | APG | PPG |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1948 | CHS | 5 | – | .283 | .714 | – | .8 | 7.2 |
1949 | 2 | – | .389 | 1.000* | – | 6.0 | 19.5 | |
1950 | 2 | – | .259 | .769 | – | 6.0 | 12.0 | |
1951 | PHW | 2 | – | .400 | .500 | 7.5 | 7.0 | 7.5 |
1952 | 3 | 40.7 | .421 | .792 | 4.7 | 7.3 | 11.7 | |
1953 | FTW | 8 | 41.1 | .338 | .667 | 4.0 | 3.8 | 10.3 |
1954 | 4 | 34.0 | .342 | .750 | 3.0 | 4.3 | 8.8 | |
1955 | 11 | 40.5 | .323 | .850 | 5.5 | 7.1 | 8.5 | |
1956 | 10 | 17.3 | .333 | .440 | 2.6 | 3.5 | 2.9 | |
1957 | BOS | 10 | 12.8 | .364 | .400 | 2.0 | 1.7 | 2.2 |
1958 | 10 | 9.1 | .238 | .778 | 1.4 | .7 | 1.7 | |
Career | 67 | 25.4 | .330 | .700 | 3.3 | 3.7 | 6.4 |
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