アルフォンス・ルグロ
フランス生まれの画家、版画家 ウィキペディアから
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フランス生まれの画家、版画家 ウィキペディアから
アルフォンス・ルグロ(Alphonse Legros、1837年5月8日 - 1911年12月7日)はフランス生まれで、後年イギリスで働いた、画家、版画家である[1]。
フランス中部のディジョンに会計士の息子に生まれた。ディジョンの美術学校に学んだ後、地元の肖像画家、ニコラルド(Maître Nicolardo)の弟子となった後、1851年に装飾画家のブーショ(Jean Baptiste Beuchot)の工房に入り、教会の装飾画の助手を務めた[2]。6ヶ月ほど働いた後、パリに出て、プチ・エコール(後の国立高等装飾美術学校)に入り、彫刻家のジュール・ダルーやオーギュスト・ロダン、版画家のアンリ・ファンタン=ラトゥールらと共に学んだ。フランス国立高等美術学校(École nationale supérieure des beaux-arts)の夜間コースでは、アメリカ出身のジェームズ・マクニール・ホイッスラーと親しくなった。彼が学んだ教師にはボアボードラン(Horace Lecoq de Boisboudran)らがいる[3]。1857年に、父親の肖像画でサロン・ド・パリに展示が認められた。
この頃からエッチング版画に強く取り組むようになった。写実主義の画家、ギュスターヴ・クールベの仲間となり、彼の水彩肖像画も描いた。
1862年、約1年間のスペインの旅を行い多くのスケッチをして、後の多くの作品の基になった。帰国した後、創立間もない、フラン ス・エッチング版画家協会(Société des Aquafortistes français)に入会した。協会はエッチング版画を出版した[4]。1864年にイギリスで活躍を始めた友人のホイッスラーの招きでイギリスに渡り、ロンドン、ワトフォードに住んだ。1864年にイギリス女性と結婚した。サウス・ケンジントン美術学校で版画を教え、1876年にはエドワード・ポインターの後任として、ロンドン大学のスレード美術学校の教授に任じられた[5]。1881年にイギリス市民権を得て、17年間、教授の職を務めた。影響を与えた芸術家にはチャールズ・ホルロイド(Charles Holroyd)、チャールズ・シャノン(Charles Haslewood Shannon)やローゼンスタイン(William Rothenstein)らがいる。
1880年にイギリスにエッチング画家・版画家協会(Society of Painter-Etchers and Engravers、1888年からRoyal Society of Painter-Printmakersとなる)の創立者の一人となった。
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