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『アメリカひじき』(あめりかひじき)は、野坂昭如の短編小説。野坂自身の戦後の焼跡闇市体験を題材にした作品である。少年時代に敗戦を経験した男が、妻がハワイ旅行中に知り合った初老のアメリカ人夫婦を自宅に招くことになり、敗戦直後の占領軍に対する一種のコンプレックスを呼び覚まされる物語。ひもじさで米軍捕虜の補給物資をくすねたブラックティー(紅茶の葉)を「アメリカのひじき」だと勘違いして食べた惨めで恥ずかしい思い出や、ポン引きまがいの闇市体験が、22年後の時点のアメリカ人への複雑な心理と重なる様を、独特の関西弁を生かした文体で描いている。『火垂るの墓』で死んでしまった清太の「戦後社会を生き抜いた場合のパラレルワールド」的その後にあたる。
1967年(昭和42年)、雑誌『別冊文藝春秋』9月号(101号)に掲載され、同時期発表の『火垂るの墓』と共に翌春に第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。単行本は両作併せて1968年(昭和43年)3月25日に文藝春秋より刊行された。文庫版は新潮文庫より刊行されている。翻訳版はアメリカ(英題:American Hijiki)をはじめ、各国で行われている。
物語の構成は、戦後22年の時点に、敗戦直後の時代の回想をランダムな時系列で所々に入れ込み、過去と現在の主人公の複雑な心理を表現する流れとなっている。主人公の気持は、戦後22年を経た時点の作者・野坂昭如の意識と見合ったものだと尾崎秀樹は推測している[1]。なお、回想部に登場するアメリカ兵やその他の人物などは、野坂の実際の体験と重なる部分も多く、ケニスという人物などは野坂が知り合った実在の人物であるという[2]。
『アメリカひじき』の書かれた1967年(昭和42年)は、戦後生まれが20代となっており、作中にあるように、その頃の若者は、野坂昭如のような戦争体験者とは違い、単純に憧れの目でアメリカを見ている者も増え、GHQの戦後教育が日本に浸透し始めた時代であり[3]、「いいにつけ悪いにつけヒステリックな意味ででも死ぬというふうに自分をかりたてることを、ひじょうにうまく骨抜き」にされ[3]、若者を「狂的になりにくくしている」と野坂は見ていた[3]。
戦前の1930年(昭和5年)生まれの野坂は、1歳の時に満州事変、小学校入学時に盧溝橋事件が始まり、太平洋戦争は中学の時に終わった[1][2]。尾崎秀樹はこの野坂の世代について、「戦争と戦後の陥没地帯」に少年時代を過ごし、「そのどちらにもついてゆけず、既成の権威や秩序が音をたててくずれるのを、その目で見、その肌で感じた世代」であるとし[1]、「それまで支配的であった八紘一宇や一億玉砕が消えると、今度は民主主義や平和憲法が立ち現れ、この世代はその言葉のハンランのなかでとまどい、生き恥さらす」と説明しながら、「虚妄に発し、虚妄に回帰するようなむなしさが、この世代をとりまくまがまがしさの実態」だと考察している[1]。
野坂は神戸大空襲で罹災し、養父母を失い浮浪児生活を送り、焼跡闇市派としての体験を味わったが[1][2]、直木賞受賞に際して野坂は、「ぼくを規定すると、焼跡闇市逃亡派といった方がいいかも知れぬ。空襲をうけて肉親を、焼跡と、それにつづく混乱の中に失い、ぼくだけが生き残った。燃えさかる我家にむけて、たった一言、両親を呼んだだけで、ぼくは一目散に六甲山へ走り逃げ、このうしろめたさが今もある。(中略)自分に対する甘えかも知れぬが、やはりうしろめたい」[4]と述べている。
また、それまで「鬼畜米英」と言っていた新聞が掌を返したようにGHQ寄りとなったため、すっかり落胆し、これが「原体験」に近いものとなったという野坂は[5]、それから後は一切何も信じなくなり、自分自身さえうまく生きてゆけば他人を裏切ってもいいというような気持になったが[5]、「戦争で(それまでの価値観が)全部ひっくりかえったところでも、大人のようにはなりきれなくて、やっぱりアメリカ人には強い憎しみをもっていた」とし[5]、敗戦当時の時代の模様については次のように語っている。
『アメリカひじき』は、アメリカに対する複雑な心理のアレルギーがモチーフとなって描かれているが、野坂はアメリカ兵について次のように述べている。
空襲で雲の上から爆弾、焼夷弾がどこかまわず落ちてきた、相手がさっぱりわからない。そこでは具体的にちっとも憎しみを感じなかったけど、実際問題として進駐軍がやってきて、ホッペタの赤い奴が町を歩いてるのをみると、こんなでかい、強そうなやつと、なんで喧嘩をしたんだろうという気持はあった。ただ、こいつたちがおれたちをひどい目にあわせたんだ、この野郎という気持だった。だから横浜の裏通りで、五、六人でアメリカ兵をぶんなぐって溜飲を下げていた。そして昭和二十七、八年までは、アメリカ人をみると、なんとかうまくごまかして生きてやろうという気持がずいぶんありましたね。(中略)僕は日本がいっぺんぐらい戦争に負けたからといって、平和国家であることがいちばん国家の形態としていいとも思っていないんで、やるならやったほうがいいという気がしないでもない。 — 野坂昭如「エロチシズムと国家権力」[5]
その一方、自分の本音の中には、「ガタガタいうならやってやるぜというような気持」と、「戦争はいやだ、グータラ、グータラやっていきたい」という気持が共存しているとし[3]、次にように述べている。
外国なんかで具体的にアメリカ人にバカにされると、「この野郎、もういっぺんやったるか」という感じがしてくるんですね。観艦式の写真なんかを見ても、世界に冠たる日本連合艦隊の思い出がよみがえってくるわけですよ。日章旗を後ろに背負って、仁丹を万能の薬だといったような、そういった時代へのノスタルジアが抜きがたくあるんです。向こうがごちゃごちゃいうなら、核兵器どころか、BC兵器でもいいから、太平洋のなかにバラまいちゃうゾ、と開き直るような……。ところが、一方においては、なんかもう戦争がいやだというか、一挙手一投足しばられても、あんな一方側にゆだねて、ごたごたいわれるのはいやだという気持ちがかなり強いんですね。 — 野坂昭如「剣か花か――七〇年乱世・男の生きる道」[3]
日頃不規則な仕事で家族サービスできない俊夫は、その埋め合せにこの春、妻・京子と3歳の息子・啓一にハワイ旅行させた。京子は旅行中、アメリカ人老夫婦と仲良くなり、帰国後も文通やプレゼント交換などをしていたが、そのヒギンズ夫妻が遊びにやって来ることとなった。22年前、戦争で父親が戦死し、病弱な母親と幼い妹を支え、中学修了後から働きはじめた俊夫は、戦後のどさくさの中で、MJB缶やハーシーのココア缶、チョコレートやチーズ、煙草などを持っているアメリカ兵と私娼の間でポン引きのようなこともしたことがあった。その品は三国人の喫茶店で現金と交換できたのだった。俊夫はアメリカ兵にお世辞や冗談を言って媚びていたようなことを、来日するヒギンズの東京案内でまたやらなければならないのかと思い、心が滅入り、敗戦直後の複雑な「日米親善」の思い出を回想する。
1945年(昭和20年)9月25日に初めてアメリカ軍が上陸し、ジープに乗ってきた大男の兵士がチューインガムを道にばら撒き、みんなで豆に群がる鳩のようにガムを拾った時、俊夫は近くで見たアメリカ兵の体格の逞しさに驚いた。その頃、新在家の焼跡の防空壕舎に母と妹と住んでいた俊夫は、8月15日の玉音放送後、夕暮れの空から落下傘が沢山降ってくるのを見た。それはアメリカ軍が脇浜にいる捕虜用に落とした物資だったが、多量のために日本兵によって各町内に秘密裡に分配されて食料品は貰えることになった。中身は、日用品の他、チョコレート、ガム、固パン、チーズ、豆の缶詰、ジャム、ベーコン、ハム、砂糖などがびっしり入っていた。町内の人々は溜息でそれを見た。
分配された宝物の中に、掌山盛りほどの黒いちぢれた糸くずのようなものがあったが、俊夫も母も何か見当がつかなかった。近所のおばはんに、「ひじきに似とるわ」と言われ、煮てみると水が赤茶に変った。「アメリカのひじきはアクが強いんやわ」と、俊夫の母は何回も水を替えて岩塩で味つけた。それはものすごい不味かったが、ひもじかったので捨てることもできなかった。3日後、兵隊から聞いてきた町会長が、アメリカひじきが「ブラックテー」(紅茶の葉)だと教えてくれた時には、町内のどの壕舎にも、アメリカひじきは残ってなかった。
そんな複雑なアメリカとの思い出のある俊夫は空港でヒギンズ夫妻を迎えた。絶対に英語で挨拶しないと思っていたが、向うが日本語でにこやかに挨拶すると、固い決心など崩れ去った。終戦後、進駐軍として半年間日本にいたことがあるというヒギンズに、豊かになって変った日本を誇りたいと思った俊夫は、銀座の店やコールガールや白黒ショーをサービスするが、ヒギンズは俊夫のどんな気遣いにも、たいした驚きや反応を見せず、悠然とした態度で図々しいそぶりだった。俊夫は次第にヒギンズに、昔の自分と進駐軍を重ね、いろいろと酷いことをされたのに、自分がアメリカ人にサービスしたくなるのは何故だろうかと考えを巡らす。
妻の京子も、せっかく用意したすき焼きの御馳走を、友人のところへ行くというヒギンズ夫妻にすっぽかされ、だんだんとこれまでのヒギンズ夫人への不満が爆発しはじめ、いくらこっちが一生懸命やっても、まるで感じないアメリカ人夫婦が、一体いつまで居るつもりなのかと苛立った。俊夫が、一月くらい居るかもと言うと、「そうしたら、はっきり言うわ、出ていってくれって」と京子は叫んだ。俊夫は、ヒギンズはやがて帰るだろうが、彼が帰っても、アメリカ人は自分の中にどっかと居座り続けるにちがいない、と思った。そして「俺の中の、俺のアメリカ人は折に触れ、俺の鼻面を引きずり回し、ギブミーチューインガム、キュウキュウと悲鳴をあげさせる、これは不治の病のめりけんアレルギーやろ」と考えながら、満腹の腹に松阪牛を押し込んで、あの「アメリカひじき」のごとくやけくそで食べ続けた。
『火垂るの墓』と一緒に受賞し、審査員の評価は総じて高いもので、反対派はいなかった。
海音寺潮五郎は、「大坂ことばの長所を利用しての冗舌は、縦横無尽のようでいながら、無駄なおしゃべりは少しもない。十分な計算がある。見事というほかはない」と評し[4]、「前者(アメリカひじき)に使われている材料はぼくの好みではないが、描写に少しもいやしさがなく、突飛な効果が笑いをさそう。感心した」と述べている[4]。
川口松太郎は、「直木賞作家の本命とはいい難く、君の技量は逆手だ。文章のアヤの面白さに興味があって事件人物の描写説得は二の次になっている」とし[4]、「野坂君が独特の文体の上に、豊かな内容をもり込む作家になってくれたらそれこそ鬼に金棒だ」と助言をしている[4]。
大佛次郎は、「この装飾の多い文体で、裸の現実を襞深くつつんで、むごたらしさや、いやらしいものから決して目を背向けていない」と述べ[4]、「作りごとでない力が、底に横たわって手強い。この作家の将来が楽しみである」と評している[4]。石坂洋次郎は、「こう短くきれぎれに書かないで、この題材で長篇を書かれたら――と残念に思った」[4]、「ともかく多才の人であり、底に手ごたえのあるものを感じさせる作家だ」[4]と評している。
中山義秀は、「文芸作品はつねに時代を、最も敏感に反映する、とされているとおり、(中略)異色ある文体に、シニカルな老練さを味わった」と評している[4]。村上元三は、「『火垂るの墓』よりも、『アメリカひじき』のほうがわたしには面白かった。はじめは取っつきにくく、気障なとまで思った文章も、こうなると芸のうちであろう」と評価している[4]。
『アメリカひじき』は、野坂自身のアメリカへの複雑な思いを描いている作品であり、直木賞を同時に受賞した『火垂るの墓』は、家族の中で一人だけ戦後に生き残ったということの贖罪やうしろめたさや、妹への鎮魂が執筆動機となっており、共に戦争体験がモチーフとなっている作品である[1]。
しかし野坂には、そういった敗戦体験に対するうしろめたさや怯えを定式化しようとする意思はなく、「概念化することでなく、そのもの自体をそれとして描き、発見することにつとめている」と、尾崎秀樹は述べ[1]、野坂独特の劇作的な文体も饒舌的な語り口も、「ふかく彼の体質にまつわるものだ」とし[1]、以下のように解説している。
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