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以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1902年のできごとを記す。1902年4月17日に開幕し10月5日に全日程を終え、ナショナルリーグはピッツバーグ・パイレーツが2年連続2度目の優勝を、アメリカンリーグはフィラデルフィア・アスレチックスが初優勝した。またミルウォーキー・ブルワーズがセントルイスに本拠地を移転しセントルイス・ブラウンズとなった。
1901年のメジャーリーグベースボール - 1902年のメジャーリーグベースボール - 1903年のメジャーリーグベースボール
アメリカンリーグではフィラデルフィア・アスレチックスがリーグ加盟2年目で初優勝した。コニー・マック監督はこの年40歳で、1886年に当時ナショナルリーグに加盟していたワシントン・ナショナルズ (1886-1889年)に入団し、その後1890年に、プレイヤーズ・リーグのバッファロー・バイソンズ (1890年)で1年プレーして、1891年からピッツバーグ・パイレーツに在籍し1894年以降はパイレーツの選手兼任監督となり、1896年まで試合に出場し、その後は監督に専念した。身長185センチ、体重68キロでポジションは捕手であった。痩身で通算打率,244の成績で選手としての評価は低かった。そしてパイレーツを離れて、たまたまマイナーリーグのウェスタンリーグのミルウォーキー・ブルワーズ(後のセントルイス・ブラウンズから現ボルチモア・オリオールズ)の監督を務めていた時に、ウェスタンリーグ会長のバン・ジョンソンに認められ、そしてバン・ジョンソンがウェスタンリーグをアメリカンリーグに改称し、メジャーリーグに昇格した時にジョンソンはコニー・マックの人気・人格・球歴を考えて新しいリーグの目玉にしようとした。すでに指導者としての非凡さを見抜いていた。コニー・マックはジョンソンに請われるままフィラデルフィア・アスレチックスの共同オーナー兼監督に就任し、アメリカンリーグに参加した。以後1950年まで足かけ50年間、コニー・マックは必ず背広姿でアスレチックスのダグアウトから指揮を取った。
同じ頃にジョンソンは新リーグのもう一つの目玉としてジョン・マグローを考えてアメリカンリーグに招いていた。
バン・ジョンソンはジョン・マグローにボルチモア・オリオールズのオーナー兼監督兼三塁手として移るように説得し、マグローはセントルイス・カージナルスからボルチモア・オリオールズに参加した。しかしジョンソンは当初からニューヨークへのフランチャイズ進出を考えていた。だがナショナルリーグの反発から、いったんは断念したが、やがてボルチモア・オリオールズのニューヨーク移転を策し始めた。そのボルチモア・オリオールズの監督はジョン・マグローで、この2人は最初からうまくいかなかった。ジョン・マグローは勝負に厳しくまた相手選手の走塁妨害などラフプレーを厭わない監督で、対してアメリカン・リーグ会長のバン・ジョンソンはナショナル・リーグのような規則の無いところでの荒っぽいプレーや喧嘩や騒動の絶えない野球ではなく、厳格なルールの適用と審判の権威の強化を目指していた。やがてボルチモアからニューヨークへの本拠地移転問題で決定的な対立が生まれた。ジョンソン会長はニューヨークへの進出を諦めなかった。これに反抗したマグローは1902年のシーズン半ばにナショナル・リーグに鞍替えし、ニューヨーク・ジャイアンツの監督となった。その1週間後に、ジャイアンツのオーナーはオリオールズの支配権を取得し、オリオールズ選手の大量引抜きを行ったが、この強引な行動に対しアメリカン・リーグ側は即座にオリオールズの支配権を取り戻し、翌1903年にニューヨークへのチーム移転を行った。ボルチモアにはその後セントルイス・ブラウンスが移転し現在のボルチモア・オリオールズとなり、ボルチモアからニューヨークへ移った球団はその後ニューヨーク・ヤンキースとなり、メジャーリーグを代表するチームとして歴史に刻まれていく。
アメリカンリーグ
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ナショナルリーグ
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打者成績
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投手成績
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