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平安時代中期の官人・漢詩人 ウィキペディアから
高岳 相如(たかおか の すけゆき、生没年不詳[1])は、平安時代中期の官人・漢詩人。氏は高丘とも記される。字は高俊[1]。右大史・高岳時光の子とも言われるが、出自は未詳[1]。官位は外従五位下・飛騨守。
文章生として紀伝道を学び、村上朝の天徳・応和年間(957年-964年)に慶滋保胤とその才をならび称される[1][2]。応和3年(963年)『善秀才宅詩合』と安和2年(969年)『粟田左府尚歯会詩』に保胤とともに漢詩が採録された[1]。正
円融朝の天元4年(981年)権少外記に任ぜられると、天元5年(982年)少外記、永観2年(984年)大外記と円融朝末から花山朝にかけて外記局で昇任され、寛和元年(985年)外従五位下に叙爵された。一条朝の正暦年間(990 - 995年)飛騨守となった[1]。藤原在国・源為憲・藤原為時らと詩席を設けたほか[1]、清原元輔・大中臣能宣らを自宅に招いて歌を詠じたこともある[1]。
『本朝文粋』や『和漢朗詠集』に詩文が残されている[1]。『和漢朗詠集』に掲載句が多いのは、選者の藤原公任が相如の弟子だからだと伝わる[1]。
『外記補任』による。
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