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小松島市の中心部に位置。市街地の南東方に位置し、北から東は小松島湾に臨み、西はJR牟岐線を境として田野町に、北西は市道を隔てて横須町に接している。
芝生川が中心部を東流して小松島湾に注ぎ、河口は金磯港となっている。海岸線に沿って旧道(市道)が東西に走り、中央部を徳島県道120号徳島小松島線(旧国道55号)はほぼ南北に貫通して県南地方に通じ、商店・住宅地が増加して、市街化しつつある。
金磯港は1959年(昭和34年)、1万t岸壁の完成により鉄工団地が造成され、山本鉄工所をはじめ17の企業が進出し、海面の埋立地には日本青果包装や原木市場が立地している。
金磯町はもと海岸の干潟で、同地の豪農多田家によって新田の造成が行われ、宝暦12年、苦心の末、金磯新田村として成立した。戦前は農業が主産業であった。
金磯新田村は江戸時代から明治22年の勝浦郡の村名。江戸期は金磯新田と称した。当地はもと小松島浦・田野村・芝生村・日開野村の田地囲堤外の州先(潮干潟)で、元禄年間以後の新田開発により成立。徳島藩領。
明治22年から明治32年までの間は金磯新田という大字名であった。干潟であったところを水田に造成した新田地域で、湿田が多く稲作農業が営まれた。
明治32年から昭和32年までの間は金磯という大字名であった。はじめ小松島村、明治40年に小松島町、昭和26年には小松島市の大字となる。
昭和21年の南海大地震により、小松島市の海岸地帯は約60cm地盤沈下し、とりわけ金磯地区は被害が大きく、元来海抜0mの地帯であるために、水田は全部海面下に沈下して全地域にわたって壊滅した。
昭和32年より現在の小松島市の町名となる。昭和45年に小松島市田野町の一部を編入。昭和34年、小松島港拡張計画により1万t岸壁の工事が完成し、1万t級の外国貿易船を受け入れることができるようになった。
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[4]。
番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 小松島市立南小松島小学校 | 小松島市立小松島中学校 |
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