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荒木 精之(あらきせいし、1907年1月7日 - 1981年12月30日)は、小説家、思想家、文化運動家、地方雑誌「日本談義」を発行、熊本地方の文化に貢献した。
阿蘇郡長陽小学校校長荒木民次郎の長男として生まれる。母富香も同じ小学校に勤務していた。5歳時、母はなくなり父は後妻を娶る。小学校卒業後、熊本市船場町の逓信講習所に入る。郵便局の推薦でないので熊本郵便局の臨時事務員や福岡県大川の郵便局に勤務する。同僚のものが軽微な過失で懲戒免職になったので、憤慨して辞表を提出した。「懲戒免職」は彼の最初の小説である。父は現菊池市で隈府女子技芸学校を設立したので加勢をした。父の死後は義母荒木スヱヲが続けた。1925年に熊本市に出て独力で勉強。1927年、20歳の時に高等学校検定試験で全科目で合格。1928年日本大学法文学部予科に入学。1931年法文学部史学科に入学。予科に入学した時に、文芸部員となり「学生会雑誌」を編集する。小説も書く。思想的には左傾するが文学的には新興芸術派とつながる。交友関係が広まり、中山義秀、石川達三、川端康成、横光利一、宇野浩二、田村泰次郎、林房雄、らと交流した。1932年に中編小説『青年作家』を出版し、新進作家としての地歩がようやく固まった。卒業論文は「明治初期文学の歴史的研究」を羽仁五郎に提出したが、逮捕されていたので国文学部で回されて審査を受けた。精之は勉強家で学部1,2年で単位はとってしまい、教員免許もとった。1934年27歳で卒業。
熊本県菊池市で義母の学校で2年間教鞭をとる。教師を務めながら作家活動を続けた。長編小説『環境と血』を出版したが自由主義、風俗紊乱の罪で即日発禁となる。上京も考えたが盧溝橋事件などが起こり、召集も考え熊本に止まる。1938年地方の雑誌「日本談義」を発行。維持員は当所104人。維持費は月1円。誌代は40銭。熊本市九品寺に住んだ。この頃から熊本の神風連の墓探しを始める。1943年結婚。1944年末、西部16部隊に召集、大矢野島で防空壕掘り、翌年健軍飛行場の土工などをする。
1945年8月17日同志とはかり、占領軍に抗するため「尊皇義勇軍」を藤崎八幡宮で結成。しかし慰撫されて解散。三里木の開拓団などに入る。1946年本屋を開き文芸活動を再開。1950年中絶していた「日本談義」再開。1953年九品寺の書店が水害に遭うも屈せず、「水害特集号」を出す。文筆活動の合間に「阿部一族の屋敷」など文化遺産の発見、小泉八雲旧居の保存、高群逸枝の「望郷子守唄」の碑の設立などを推進。地方労動委員、県教育委員をつとめる。1959年熊本日日新聞社社会賞を受賞。1962年「熊本県近代文化功労者」となる。1963年熊本県文化懇話会を、1970年熊本県文化協会を結成し、代表世話人、協会長になる。1980年辞任し県文化協会常任顧問となる。その前、1978年(昭和53年)桜山神社境内に、財団法人神風連資料館を建て、理事長となる。1981年12月30日没。脳出血で熊本大学医学部附属病院脳神経外科で開頭術を受けたが助からなかった。
昭和13年5月創刊。一時休刊を経て終刊号を1982年4月1日発行。この号は荒木精之を悼む特別号。
深謝し、敬意を表したいとある[1]。
勲五等瑞宝章受章、熊日社会賞、西日本文化賞、蘇峰会賞、県近代文化功労者。
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