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大阪船場地域に於ける商人及びその世帯 ウィキペディアから
船場商家(せんばしょうか)は、大阪船場地域に於ける商人及びその世帯。
大阪の商人町は豊臣秀吉が船場を開発した際に移住させられた堺や平野の商人の他、近江や伏見の商人が船場を含む大阪城下へ移住することによって形成された。これ等各地の商人文化に倣い、船場の商家には独自の風習や生活様式が育まれた[注釈 1]。
大阪の船場地域は、1583年(天正11年)豊臣秀吉が上町台地を中心に城下町建設を進める中で、東横堀の西側に町を造成・移転したことに始まる[要出典]。
江戸期の1619年(元和5年)、大阪は天領となり、市政を担当する東西町奉行が設置され、城下は北組・南組・天満組の大坂三郷に分けられた[2]。
享保以降、大阪では多数の奉公人を雇用する法人的組織をもつ商家が主流となり、家訓や店則の制定、所有と経営の分離、会計帳簿の整備、奉公人制度の確立があり、組織と管理を重んじる経営、いわゆる「船場商法」が定着することとなった[3]。
近代以降、大阪は大大阪時代を迎え、人口増加や産業の発展と共に大気汚染等の環境問題がおこり、船場商家を含む一部富裕層や新中産階級と呼ばれた人々は住み良い環境を郊外への生活に求め、阪神間地域へと移住した。これ等の移住により、高級住宅地の造成、旦那集や有職婦人らによる近代的・豪奢な生活文化(阪神間モダニズム)が阪神間に形成された[4]。郊外への居住は、明治後期から増加しつつあった社会階層であるサラリーマンの生活様式であり、こうした職住分離型の住宅取得への志向がひろがっていた[5]。
戦前の船場商家には「
船場道修町の商家では、入居すると奉公人はまず、ごりょんさんから、着物、帯、下着と店の作業着などをもらうが、すぐに店に出られるわけでなく、しばらくは奥の手伝いをし、その聞にごりょんさんから「仕込まれる」のである。
ここでは、「仕込まれる」という言葉が何度も出てくるように、丁稚は奥の手伝いをしながら「日常生活の中で」ごりょんさんに「仕込まれ」た。「仕込」まれたのは、「しまつ、節約」だけでなく「あいさつ」も商家では重要であった。
お盆、年の暮近くになりますと、旦那さん、御寮はんに奥の聞に呼ばれまして、これからお供物を持って荒川商店さん(現・荒川工業)へ使いにやらされました。店とは親戚以上の古いお付き合いであったそうです。一度女中部屋に入り、洗濯をした清い厚司(丁稚用の作業着)に着替えて、挨拶の仕方とか行儀作法を幾度も繰り返し教えられ、「では行て参じます」と挨拶して出かけます。荒川商店さんに着いて女中さんに口上を述べ、帰る際には奥さんが出て来られて労を犒って頂き、その上おため(寸志)を貰い、帰店早々御寮さんに「只今荒川さんより帰って参じました」と挨拶をします。荒川さんの奥方の口上を述べ風呂敷を渡しますと、おため袋の中を確かめられた上、「これ、あんたに上げるが大切にするんやで」といわれます[7]。
船場には「行て参じます」というような独特の船場言葉があり、丁稚は定型化された口上を訓練させられることによって、船場商家の「つきあい」を身につけていった。お付き合いの先方の女中に口上を述べ、またごりょんさんからの口上を聞くことによって、他店のごりょんさんや女中から「あいさつ」の教育を受けることにもなった。
丁稚が番頭へと昇進するときには、必ずごりょんさんやおいえさんが同席し、彼女たちの手から番頭へと昇進したしるしである着物一式が渡された。この時に渡される羽織は、番頭になって始めて着ることが許されるものであり、番頭になったという象徴的な意味を持つものであった。道修町では、商家の妻が席に出ることは少なかったが、それでも、大晦日の商家の「毎年の行事」には出席し、店員の昇進の象徴である羽織を渡すのは、ごりょんさんの役目であった。丁稚が入居した時に仕着を渡すことから始まり、様々なしつけを経て一人前の商人にいたる終着点である番頭になるまでの責任と役割を、ごりょんさんはダンサンとともに担っていたのであり、番頭になることを認める権限をも担っていたことを、このような羽織を渡す行為は象徴している[8]。
(出典:[9])
船場の商家の丁稚、手代、番頭、さらに家族たちも、朝食は漬物だけと冷や飯のお茶漬けというのが原則になっていた。冬の寒いときには熱いお粥のときもある。白粥であるが、薩摩芋の入った芋粥のときもあり、茶粥のときもある。茶粥は大抵、前夜の残飯を煮立てた番茶に放り込んだ入れお粥である。
漬物は「お香々」(沢庵づけ)や「おくもじ」が原則であるが、夏なら胡瓜や茄子や白瓜の浅漬け(一夜漬け)のときもあり、白菜や杓子菜や菜種菜、水菜、大根のきざみづけ、梅干、あちゃらづけ(千切り大根を水でもどして、わかめとともに酢につけもの)など時期により変化がある。「おくもじ」というのは沢庵づけのタルのふたの下敷きにしてある大根の葉のことで、京都御所の女房言葉である。つまり茎の意である。御所言葉では髪は「か文字」酢は「す文字」というような言い方をし、必ず「お」をつけるので、「おかもじ」「おすもじ」となる。茎の「おくもじ」は、沢庵が蓋に押されて、形が悪くならないようにとの詰め物であるから、本来なら捨ててしまうものだが、みじん切りにすればおいしいものだから、船場の人はむざむざ捨てはしない。
「おくもじ」や「お香々」に醤油をかけることは厳禁されていて、うっかりかけると叱られた。「お香々」は一食に二切に制限されていた。三分くらいの厚さに輪切りしてある。三切れは「身切れ」に通じると忌み嫌われたとされるが、身切れは士分階級の忌み言葉で、商人では「見限れ」に通じるといわれる。
食べ盛りの丁稚は、この二切れの「お香々」や「おくもじ」で五六杯の飯は平らげる。なかには十杯平らげる者もいた。お香々は制限されるが、飯の方には制限なく食い次第である。制限はないが、それらしいものはある。「早飯、早糞、早使い」という丁稚戦陣訓である。すべからく丁稚たるものは、何事にも敏捷をもって旨とせよというのである。だから競争かと思うほど早く多く食べようとする。茶漬けだから飲み込むといった方がよい。ただし、あまり音を立てると行儀が悪いと叱られる。しかし、お香々を噛む音は仕方ないが、それも、十分に噛んでいると遅れをとるので、程よいところで飲み込んでしまう。
真っ先に食べ終わった丁稚が、箱膳[注釈 3]に茶碗と箸とおてしょう(手塩皿)を片付けはじめると、もう一杯食べたくても、食べていれば負けてしまう道理。「長飯、長糞、長使い」と爪弾きされる。
漬物には醤油が染み込む程度にかけ、食べ終わった後に、醤油が皿に残っていてはいけないのだ。もし残っていると、古参の丁稚や女子衆に注意された。時には、番頭や旦那さんに、その不心得を説教されることもある。「醤油をザブザブ残すようでは、金の方はよう残さんし、出世もようせんやろ」と説教の言葉はおきまり文句である。そこで、その残った醤油をどうするかというと、食べ終わった茶碗の中へおてしょうを傾けてお茶を注いで洗い、そのお茶を飲んでしまうようにしつけられた。これは、丁稚だけでなく、その家のぼんぼんやいとさんたちでも同様であった。
朝食は、大体5分ぐらいで終わると、箱膳に飯茶碗と手塩皿と箸をおさめ、膳にしていた箱膳の蓋を裏返して蓋をし、「おおきにごっつぉさん」といって、手を合わせ(神仏に感謝して)、膳棚の所定の位置に箱膳をのせて店の間へ去って行く。朝食の食器は洗わない。食後飯茶碗に注ぐお茶で、手塩皿はきれいに洗われているし、箸はそのお茶でバシャバシャとゆすいで、口をつぼめてチュッと水を切ればよいのだ。これを紅木綿の布巾で拭くと、ユーモラスな言葉で表現する。ところが、お粥の場合は、粘りが御茶碗の側にくっついているから、紅木綿の布巾というわけにはいかず、お茶を注いで箸でうまく粘りを洗い、そのお茶を飲んだ。衛生上から考えると、ことに夏場は感心した話ではないが、茶の湯の茶碗の後始末と同じである。とにかく朝は忙しいのだから、ぐずぐずしていられないのだった。
昼食は「おばんざい」のつく店と、味噌汁のつく店とある。昼食といっても、一時間の昼食 時間がきめられているわけではなく、商家で一番ピッチの上がっている時間、だからこれもゆっくりと構えてはいられない。大抵は味噌汁か、冬なら酒の粕汁である。汁気のものは早く食べられるのと、晩食で汁気のものを食べさせると、早寝させられる丁稚のなかには、寝小便するおそれがあるからだ。味噌汁のことを「おむしのおつゆ」とか「おむしのおしい」という。「おむし」は味噌のことで、「おしい」は汁のことである。東京でいう「おみおつけ」のことだが、東京で朝食につくおみおつけは、ほかにお菜もつくから、小さな茶碗に豆腐かわかめが浮いている程度である。だがこちらは、同じ味噌汁でもおかずにする味噌汁だから、たっぷりと具が入っている。味噌は大抵、白味噌であるが、赤味噌のときもあり、白赤半々に混ぜたときもある。それも薄くのばして、東京のようにこってりと濃いものではない。これは節約というよりも、大阪の人間はあまり濃い味噌汁を好まないからだと思われる。汁のだしは、主に「だしじゃこ」を使う。「いりこ」ともいう。鍋の中に何時間もだしじゃこを浸しておいて、そのまま煮立て、具を入れて柔らかくなったところへ、溶いた味噌を流し込んで出来あがりだった。それを下働きの女子衆が、具のえこひいきのないように、丼鉢についで台所の板の間に並べて置いてくれる。すると、「正午のドン」(十二時を知らせるために、大阪城で空砲を打つ)が遠くに響いて、丁稚たちは台所へ、駆け込む。「よばれまァす」と、めいめい大きな声で叫んで、真似事のように合掌して箱膳に向かう。
昼食の味噌汁や粕汁は、お代わりができるほどたっぷり作ってある。朝のお香々二切れの反動で、皆お代わりをする。丼鉢に二杯だから相当ボリュームがある。そのかわりよくしたもので、ご飯の方は自然に少ししか食べられない。汁は別に二杯とは制限されていないが、三杯食べる者はない。何故かというと、こんな文句があるからである。(阿呆の三杯汁)そこで、恥をしのんで、女子衆にたのむ。「お梅どん、もう半分たのんます」女子衆はニヤニヤ笑いながら、丼鉢に半分よりは余計によそってくれる。「おおきに。けど三杯汁やおまへんでえ。二杯半汁やさかいな」阿呆にはならん、というのだろう。他愛ないユーモアである。
昼食の時間も大体5分から7分の間で、箱膳を元の膳棚におくが、丼鉢は共用なので、流し元で洗って、米揚げざるに伏せておく。そして一番どん尻になった丁稚がそれを拭いて、通り庭にある食器棚にしまう。何しろその時刻は、女子衆たちは、おかみ(主人方)の御給仕に忙しいから、手伝うことはできないし、たくさんの食器が流し元を占領していると、邪魔になるからである。その丁稚たちも、次には店での作業が待っているから、ついあわてて通り庭に鉢を落として粗相をすることがある。が、決して「割りました」といってはならない。割るは、「なんきんを割る」といって、破産倒産に通じるからこっぴどく叱られる。「えらいすんまへん、数ふやしましてん」といって謝れば「ふやすのはええけど、今度から気いつけや」と割合応揚に許してもらえる。ユーモアの効用である。しかし咄嗟にそう言えるまでには、やはり何年か年期が要る。新米の丁稚ではおろおろするばかりで、そんな転機はきかない。だが先輩がいろいろと、よいことも悪いことも教えてくれる。お堅いばかりでなく、船場の商人はなかなかユーモアを解し、人とのつきあいにも、商売にもよく応用して、角の立つところをなめらからにほぐして、商談を成功させてきたものである。
六時になれば、御堂さんの鐘が鳴る。昔の暮六つの鐘の名残である。小売屋はともかく、卸問屋の商家は終業時である。店を片付けて、開け放した入口の簀戸を引き寄せ、暖簾をはずし、打ち水をすますころにこの鐘が鳴ると、台所から煮炊きの匂いが漂ってくる。朔日でも十五日でもない平日は、牛肉や魚は絶対つかない。一番多いのが、お精進物のごった煮である。大根、人参、里芋、蓮根、こんにゃく、ごぼう、油揚げ、ひろうす(がんもどき)、焼き豆腐、高野豆腐、千切り大根、切干大根、薩摩芋、大豆、昆布、ぜんまい、なんきん(南瓜)、かもうり(冬瓜)、茄子、ねぎ、青菜、白菜などで、旬には筍、青えんどう、そら豆、ふきなど野菜を材料にして、それらをうまく組み合わせて調理してある。
船場の商家の丁稚は、野菜ばかり食わされている、青菜ばかり毎日食べさせられているように思うが、前記の材料を味噌や片栗粉、胡麻油や大豆油などを使って調理するのだから、いわゆる「おばんざい」で、決して贅沢とはいえないが、十分に腹もちのする、そして栄養価の高いおかずである。
春の旬には筍ご飯や、青えんどうのご飯、椎茸に湯葉や、お高野の入ったかやくご飯や、まぜずし、秋の旬には松茸ご飯などがでた。
日常は船場では、野菜本位の「おばんざい」であるが、朔日と十五日、お祭りの日には肉や魚がつく。つまり月に二回である。朔日とはツキタチで、旧暦では新しいお月さんが生まれる日である。一月の始めである。陽の日である。その新月は十五日で満月となり、陽の絶頂の日となる。そこで、一日と十五日を祝った。祝いの日には赤飯を炊き、ごちそうを作って祝うのは昔からの商家の習わしである。また、職人たちは、三十日と十四日に勘定をもらったので、一日と十五日は休日である。
赤飯は三食ともではない。大体飯は一日に一度だけ一人前分を炊く。大抵は夕食時に炊く。だから、夕食に温かい赤飯が供される。その時、魚がつく。魚といっても、鯖か鰺か生節(なまり節)か、ときには鰯か、さえら(秋刀魚)ぐらいのところがせいぜいだが、丁稚たちは、やっぱりその日を待ちわびる。大抵は煮魚にしてしまうが、少人数の店なら焼き魚にする。仕出し屋も日頃のご贔屓にむくいて、生魚の値段だけで、焼き賃はサービスする。鯖は小鯖以外は大きすぎて、どうしても切り身にしなくては焼けない。そんな大鯖は、三枚におろして身の方を焼き、中骨と頭は翌日「船場煮」として食べさせる。船場煮は「船場汁」ともいう。前日、塩をした鯖の骨や頭をだしにしてすまし汁を作る。程よい塩気とだしがにじんで、何の調味料もいらない。その汁に短冊形に切った大根を放り込んで、大根が柔らかくなるまで煮る。鯖のだしと塩気が、大根に染み込んで割合あっさりした汁物になる。船場人が考えた廃物利用の食物である。
また夏などは、尼崎や西宮の浜あたりで獲れた、朝網の小鰯を売りに来ることがある。そんな時は、日常でも臨時に魚にありつくことがある。が、これは鰯を食べさせるというよりも、土生姜を刻み込んで、甘辛く煮たその煮汁で、どっさりおからを煮き、皿に盛った上に五、六尾のせる。前日が煮魚であるときも、その煮汁を利用して、おからや豆腐を煮く。
鰻屋が鰻を焼いたあと、切り取った頭を安く売っている。これを「半助」というが、これを豆腐と一緒に煮たのもある。
船場の商家では、毎月二十八日がかまどの神さんである清荒神さんの例祭なので、「めえ」がおかずにつく。海草のひじきのことで、それに刻んだ油揚げを入れて甘辛く煮く。それを二十八日だけでなく、八の日を「めえ」の日とする家もあった。また、庚申さんの日には、必ずこんにゃくの田楽を、食べた。つまり暦の「かのえさる」の日で、六十日に一度まわってくるが、その日は天王寺の庚申堂の例祭である。
船場商家の町屋は京町屋と同様の形式(通り庭型、通り土間型)をとり、商売と生活空間が共存しており、店主家族と店員との往来や交流も密接であった。
船場の商家で話される大阪弁には特徴があり、独特の語彙やアクセントをもつ。 概ね京ことばの影響がみられ、一説では、かつて大阪の商人が京都の豪商を気取りその言葉を真似した事に由来すると云われる。
(出典:[10])
けちは他に、けちんぼ、しぶちん、しぶんち、しわんぼ、と大阪弁には何通りもある。要するに吝嗇家をいうのである。「しわんぼの柿の種」と子供らはよくはやし立てた。けちな人は、柿の種みたいな捨ててしまう物でも、物惜しみしてくれないというのだ。「出すことなら袖から手を出すのもいやや」という人もいる。そんなのは全くの吝嗇家で守銭奴である。
だが、大阪町人の生活態度は、江戸時代の昔から、「しまつ」という精神があった。しまつは始末で、物事の始めと終わりはけじめをつけて締めくくることである。合理的な町人精神であり、それは節約とか倹約とかの実践につながる。合理的なことなら金銭の支出は惜しまないが、不合理な金銭の支出は絶対にしない。無駄遣いだからである。そのように、「けち」と「しまつ」ははっきりとした区別がある。
生活への才覚とは、終始節倹である。つまり、入るを計って出ずるを制すの精神で、節倹することはやはり金儲けと考えたのである。不況の時をこそ常時と考えて、日常の生活程度は不況の最低の時を標準としていた。こうしておけば、不況になっても急に生活程度が低くなるような、みじめな思いをしなくてもすむのだ。事実、当時の町人の生活は実に質素であった。
金というものは、使うためにあるものではない。殖やすためにあるのだ。と、皆そう考えていた。金を運転して金を殖やす、殖えた金をまた運転して、さらに金を殖やす。井原西鶴のいう「銀が銀を儲くる」のであった。「金銀こそは商人の氏素姓」なのである。それには江戸ッ子の職人のように、宵越しの金は持たねえなどとバカ気た料簡を持つ人は、一人もいなかったのである。
西鶴の「日本永代蔵」巻三にこんな話がある。年四十すぎるまで貧乏の苦しみを嘗めた男が、ある金持ちに、貧病をなおす薬はないものかと治療法を教わりに来た。その金持ちはさっそく長者丸という、妙薬の処方を教えてくれたのである。その処方箋というのは
この五十両を細かく粉にして、胸算用の秤目に間違いないよう注意し、これを朝夕のむからには長者になることまず疑いはない。ただし、次に掲げる断ち物をせねばならない。
以上は劇毒薬よりも恐ろしいもので、口にていうはおろか心の中でも思うことならぬ。というのである。これは西鶴が当時の町家の家訓などを研究して、そのなかでパーセンテージの多いものを並べてみたものだと思われる。
当時の人々には、さらに宗教的な考え方が加わっていた。船場の商家は、北御堂・南御堂のお膝元だけに、ほとんど大部分が門徒衆であり、その教えを生活信条にしていた。いわく「もったいない」いわく「冥加が悪い」と身の程を知り、衣食住すべては、仏の慈悲によって、人間の生きるために与えられた恵みものであるから、これを粗略に扱うと仏恩に背くことになるから天罰があたる、と信じていた。それは当時の生活物資は、決して豊富でなく、とくに手工業の繊維類は貴重品であった。そういう事からも、生活物資は、実に大切に使って、廃物になってからも、その応用、利用法を考えた。こうして町人たちは、才覚と勤倹をもって働きつづけ、目的の金銀を手に入れたのであった。
地味の事を船場では「こうと」といった。ただ質素というだけでなく、浮ついた華やかさのない、品位ある質実さをいったものである。商いの上にも、生活の上にも、交際の上にも、外見は質素であっても、内にこもる心は豊かに温く、品位と格調があった。この「こうと」こそ、何十何百年の長い間にわたって、さのみ激動のなかった封建時代の、商業資本主義を守って来たのであった。
衣服の柄一つでも、船場の人は、つとめて「こうと」なものを選んだ。同時に品質の良いものを選んだ。こうとで品質の良いものは値も高い。だか、それは嫁入りの時に作ったものでも、老年になっても着ておかしくないほど長い間の使用に耐えた。あきの来ない、持ちのよい丈夫な物を買ってさえおけば、一生涯、孫末代までも着られるのだ。どんな高価なものでも、結局は非常に安いものにつく。家具や商売道具でもそうである。「安物買いの銭うしない」といろは歌留多にあるように、安くてもための悪いものは、結局は高くつくのだ。
消耗品でも価格の安い時に買い溜めて、それをつつましく使い、食料品でも保存のきくものは、小買いしないで、なるべくまとまった数量で買い溜めた。それは倉庫なり納屋なりがあって、保管のスペースが十分あったことにもよる。とにかく物資を大切に扱うことは徹底していて、縄切れ一本でも、米一粒でも、黄金の端くれと考えておろそかにしないと同時に、神仏の与え給うた恵みであると、感謝することを忘れなかった。このつつましい生活態度が、自然に「しまつ」ということに結びついて、船場の人々は生活してきたのである。
しかし、一方では、義理ある向きには十分に義理を尽くし、寄付行為など、利益を社会に還元することも忘れなかった。江戸時代には、高麗橋、本町橋などの公儀橋以外の橋は、ほとんど、町人が私財で架けたもので、一人で架けたもの、数人寄り合って架けたもの、公費の補助をしたりして架けたものだった。懐徳堂のような漢学塾、緒方適塾のような医学塾などの学校を作ったのも、町人の手であり、それは明治・大正の代になっては、さらに多くなり、実業家たちは、大学の中の研究室などの建設には競って多額の寄付をした。中之島図書館を寄付した住友家や、公会堂を寄付した岩本栄之助、阪大に寄付した野村徳七など特に有名である。このように、「けち」と「しまつ」は、全く違うのである。
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