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日本の人口学者 ウィキペディアから
舘(館) 稔(たち みのる、1906年(明治39年)11月11日 - 1972年(昭和47年)3月21日)は、日本の人口学者。1939年(昭和14年)東京帝国大学卒業。厚生省(現厚生労働省)人口問題研究所に入所。1959年(昭和34年)所長(第二代)に就任。国際連合人口委員会委員、国際人口学会、国際統計協会などの役員を務めた[1]。
1950年代から、「ベビーブームからベビーデフレへ」との表現で日本の少子化問題を指摘していた[2]。ベビーブームが1950年に鎮火したこと、さらに結婚年齢の変化や出産年齢層の変化などから出生率の低下傾向が続き、出生減退が起きることを予測した[3]。
当時は日本を含め、世界的には発展途上国の人口爆発と資源の有限性の観点から「人口抑制」「出生抑制」の必要性のほうが強調されており、少子化が社会問題としてマスメディア等で指摘されるようになったのは、1989年に日本の合計特殊出生率が1.57を下回り「1.57ショック」を迎えてからのことである[4]。
少子化だけでなく核家族化や将来の高齢化問題にも早くから懸念を示しており[5]、「ダイヤモンド」1956年9月18日号のインタビューでは、日本の伝統的な家族制度はすでに崩壊しているとの指摘に加え、当時は生産年齢人口層は増加傾向にあったが、彼らが高齢者になった社会のことを考えておかないと手遅れになると語っている。具体的には、高齢者の雇用が増えることと労働市場の合理化が生む矛盾について、あらかじめ考えておくべきと語り、日本の政策は人口問題から見ると短期計画の理論ばかりだと指摘している[6]。
舘が生涯をかけて収集した資料は、「人口政策確立要綱」に代表される出生政策以外にも、食糧問題、移民政策、国土計画、母子保健・公衆衛生、統計制度、人口問題に関する国際会議や財団法人人口問題研究会に関する資料など多岐にわたる。これらは人口問題研究所から公益財団法人ジョイセフ(旧・家族計画国際協力財団)を経て、再び国立社会保障・人口問題研究所図書室に戻り、保管されている。その資料全体は「舘文庫」[7]と呼ばれている[8]。
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