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老中格(ろうじゅうかく)または老中並(ろうじゅうなみ)は、江戸幕府において、老中に準じる者に与えられた役職。時代によって役務や処遇の位置づけに変化があった。
初めて老中格の職務と待遇が明文化されたのは松平輝貞の事例であった。老中と比較した職務では、月番交代と老中奉書への加判を行わない、老中と同じく寛永寺・増上寺・紅葉山参拝の名代や御三家・国持大名の参勤交代の挨拶に将軍の上使を勤める、御礼事・御祝儀事・諸献上・諸音物等は老中同様であった。処遇については、基本的に老中と変わりがなかったが、諸大名・諸太夫からの願書は老中と違って、宛先記載のないものを提出することになっていた。なお、幕末の老中格はそれ以前と異なり、正規の老中同様に幕政中枢の責任者として重用された。老中就任に必要な最低家禄の2万5,000石に満たない者の場合に老中格へ任用される。この場合、無城大名は城主格大名へ昇格する。
幕初の老中格は将軍家光の信任を得た側近たちが老中制確立期において、大名に取り立てられ、最終的に老中に就任して統治機構が完成する過程において任命されている。その後の昇進ルートの先例となった。就任は比較的若年層となっている。
前期の老中格は将軍家へ入嗣した主君との厚い主従関係を持った藩士が取り立てられている。石高は高禄(最終石高は保明が甲府15万石、詮房が高崎5万石)で、在任期間が長い。同時期の老中就任者の平均年齢の40代中盤から50代中盤に対して、やや若い時期に老中格となっている。側用人のまま老中格となっており、これは確立していた老中による合議制に対して、親政を志向した将軍が政治力行使のために幕政に影響力を与えるための手段と見られる。
中期の老中格は輝貞一人であり側用人出身である。本来、側用人を排除し、譜代を尊重した政治姿勢を見せていた徳川吉宗の治下にあって経験と実務を評価されて長期にわたって重用された。しかし基本政策に反する登用であるため、老中より一格劣る老中格に留め置かれた。高齢での就任であり、高崎7.2万石は当時の老中平均の5-6万石よりも高い。
後期の老中格は最後まで専任であった本多忠籌を除けば、在任期間が短く、高齢・少禄であり側用人出身者が多く、後に老中に就任している。将軍家や有力幕閣との結びつきの強いものという共通点がある。また、この期に初めて老中格が老中勝手掛を兼任した事例が作られた。
幕末の老中格は当時の老中と共通して、短い在任期間、就任者数の増大、再任例の発生が見られる。石高、年齢、出自や立場(外様、世子、隠居など)がばらばらであり、柔軟性が見られる反面、難しい政治情勢に対応した有効な政治力が発揮されなかった。また、徳川慶喜との関係が深い人物が老中格に就任している傾向がある。
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