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元末・明初の作家 ウィキペディアから
羅 貫中(ら かんちゅう、簡体字: 罗贯中、生没年不詳[1])は、中国の元末・明初の作家。通俗白話小説の作家として知られており、歴史小説『三国志演義』・『水滸伝』の編者とされる。しかし、事績は余り明らかではなく、出身地や著作を巡って歴史学界で長年論争になっている。施耐庵の弟子だというが、施耐庵関係の史料の信憑性が著しく低いことから疑問視されている。なお「貫中」は字であり、「漢中」は誤りである。
諱は本。貫中は字[2]。号は湖海散人。信頼できる史料は乏しく、信頼できるまとまった史料は羅貫中の友人であった賈仲明の『録鬼簿続編』しかない。そこには、
「羅貫中は太原の出身で号は湖海散人といった。人付き合いの悪い性格であったが、清新な楽府(元の雑劇)を書いていた。私とは忘年の交わりを結んだ親友であったが、いろいろ問題があり、離れ離れになってしまった。最後にあったのは元の至正24年(西暦1364年)で、この本を書いている60年以上前だ。どこで死んだやら、わからない」 — 賈仲明、『録鬼簿続編』
と書かれている。[3]羅本(あざな貫中)なる人物について史実と見られるのはここまでだと中国文学者の金文京・高島俊男は論じている。[4]
なお、それ以外の細かい情報としては、元の末期の朱子学者・趙楷の門人の一人に「羅本」という人物がおり、これが羅貫中と同一人物らしいことが判明していること、明代に世間の噂話をまとめた『七修類稿』に「世間でもてはやしている『三国志演義』・『水滸伝』は杭州の羅貫中の作品だ」という記載があること、後述する『百川書志』くらいである。[5]なお、羅貫中は放浪の旅の作家だったために正史『三国志』を十分利用できず、正史の簡略本である『十七史詳節』を用いていたらしい。『三国志演義』の古版本ではしばしば『十七史詳節』からの引用が見られる。[6]
三国志演義の成立史も参照。
一説に四大奇書とされる『三国志演義』・『水滸伝』の作者であると言われているが、それが正しいかどうかは日中の学界で議論が分かれている。日本の中国文学研究者・高島俊男は「中国の学界では羅貫中を2つの小説の作者とみる説が有力とされている。しかし、自分は異なると思う」と主張した。羅貫中が『三国志演義』・『水滸伝』の作者であるという説の根拠の一つは明の武将・高儒の蔵書目録『百川書志』巻一雑史の項である。そこには、
「『三国志通俗演義』二百四巻 晋の平陽侯・陳寿の史伝、明の羅本貫中の編」
「『忠義水滸伝』一百巻 銭塘の施耐庵的(の)本、羅貫中編次」 — 高儒、『百川書志』
という記載がある。 [7]
しかし、羅貫中と『三国志演義』・『水滸伝』との関連性は高儒の記録を除くと『三国志演義』の古版本の刊記[8]、世間の噂を集めた明の郎瑛『七修類稿』くらいしか確証がなく、どれも簡単な記載ばかりである。その上、下記の問題を抱えており、日本の学界では余り肯定的な見解はない。『三国志演義』・『水滸伝』は日本の学界では複数名による作品ではないかという説も存在している。複数名説を取る高島及び中国文学者の上田望の批判を下記に要約する。以下、区別が付きやすいように元末の劇作家を「羅本」、『三国志演義』・『水滸伝』の著者グループを「羅貫中」とする。[9]
なお、金文京は羅貫中複数名説について、「そういう説もあるが、出身地が複数有ることは、元の時代は騎馬民族国家で人の移動が激しかったために合理的に説明できる。羅貫中の「湖海散人」という雅号は正史三国志に登場する劉備の部下陳登に由来するのだろう。もちろん『三国志演義』成立以前に羅貫中の名が騙られた可能性もある」「『十七史詳節』以外にも『古文真宝』など、史書の略本は羅貫中は色々使っているようだ」と中立的な見解を示している。[12]
『三遂平妖伝(略称:平妖伝)』、『残唐五代史演義(略称:五代史演義)』、『隋唐両朝志伝演義(略称:隋唐演義)』などの歴史小説も「羅貫中編次」とされるが、金文京は「これらの書物が羅貫中作である可能性は『三国志演義』よりはるかに低い」としている。金の研究によれば、これらの歴史小説は『三国志演義』を真似て書かれており、固有名詞を入れ替えれば『三国志演義』と同じ話になってしまうところが複数あるという。このことから金は『「羅貫中編次」は「羅貫中の『三国志演義』風の歴史小説」くらいの意味しか持っていない。これらを羅貫中の作とすることは出来ない』と述べた。[12]
羅貫中の出身を巡っても論争があり、山西太原の人とされるが(『録鬼簿続編』)、山東東平(東原ともいう)の人とも言い(『三国志演義』蔣大器序など)、また浙江杭州の人とも言う(『七修類稿』)。羅貫中が朱子学者趙楷の門下だったことを発見した中国の学者王利器は、「趙楷は東平の近隣で塾を開いており、『録鬼簿続編』の太原は東原の誤字だろう」としている。[12]
『西湖遊覧志余』には「小説数十種を編撰した」とあるが、現在、羅貫中が編者であることが確定できる小説は前述の通り、厳密に言えば存在していない。また、同じく『西湖遊覧志余』によれば、通俗小説などという俗悪なものを書いたため、子孫三代が唖となったなどと悪評をたてられたという。
清代の伝説(清初の文人・顧令の『塔影園集』「跋水滸図」・『徐鈵所絵水滸一百単八将図題跋』)では、元末の羅本は元末の混乱時に張士誠に仕えたとされ、『水滸伝』は羅本が張士誠を諫める目的で書いたものであるとしている。[13]また、「(『三国志演義』の)赤壁の戦いの描写は、朱元璋と陳友諒の鄱陽湖の戦いをモデルにしていた」と言われる。
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