第三次ポエニ戦争
共和政ローマとカルタゴの間の最後の戦争 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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第三次ポエニ戦争(だいさんじポエニせんそう、英: Third Punic War)は、古代の地中海地域における有力な国家であったカルタゴと共和政ローマが戦った三度にわたるポエニ戦争の中で最後となった戦争である。戦争はローマの勝利に終わり、カルタゴとその国家は完全に滅亡した。
第三次ポエニ戦争 | |||||||||
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ポエニ戦争中 | |||||||||
カルタゴの攻略を描いたジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの絵画(1725年 - 1729年) | |||||||||
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衝突した勢力 | |||||||||
カルタゴ | 共和政ローマ | ||||||||
指揮官 | |||||||||
ハスドルバル(英語版) ディオゲネス |
スキピオ・アエミリアヌス マニウス・マニリウス ルキウス・マルキウス・ケンソリヌス ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス ルキウス・ホスティリウス・マンキヌス | ||||||||
戦力 | |||||||||
20,000人以上の軍隊と多くの武装市民 | 40,000人から50,000人(内、騎兵4,000人) | ||||||||
被害者数 | |||||||||
奴隷となった捕虜50,000人 | 不明 | ||||||||
戦闘:オロスコパ - チュニス湖 - 第一次ネフェリス - カルタゴ港 - 第二次ネフェリス(英語版) - カルタゴ包囲(英語版) |
紀元前201年にローマの勝利で第二次ポエニ戦争が終結し、戦争後に結ばれた講和条約でカルタゴはローマの許可なく戦争を起こすことが禁じられた。ローマの同盟国であったヌミディアのマシニッサ王はこの状況を利用してカルタゴの領土を公然と襲撃し、占領する行為を繰り返した。これに耐えかねたカルタゴは紀元前151年にローマとの条約を無視して将軍のハスドルバル(英語版)が率いる軍隊をヌミディアに向けて派遣した。しかし、この軍事作戦はオロスコパの戦いでカルタゴ軍が完敗するという結果に終わり、ローマはこの不正な軍事行動を口実に懲罰的な遠征の準備を始めた。
その後、紀元前149年にローマの大軍が北アフリカのウティカに上陸した。カルタゴは使者をウティカに派遣したが、ローマ側の要求に応じてすべての兵器を引き渡し、艦船を焼却した一方で、都市を放棄する最後の要求は拒否した。これに対しローマはカルタゴを攻略するために軍を派遣した。紀元前149年の間、ローマ軍の作戦は度重なる失敗に終わったが、ローマ軍の将校の一人であるスキピオ・アエミリアヌスの活躍によって大きな損害は食い止められた。紀元前148年には新しい執政官が派遣されたが、前年と同様に成果は上がらなかった。紀元前147年の執政官を決める選挙では、就任可能な最低年齢に達していなかったスキピオに対するローマ人の支持が非常に高かったため、元老院はその年におけるすべての公職の年齢制限を撤廃した。スキピオは執政官に選出され、アフリカにおけるローマ軍の総司令官となった。
スキピオはカルタゴへの包囲網を強化し、海側からの都市への補給を遮断するために巨大な堤防を建設した。これに対してカルタゴは艦隊を再建して出撃したが、撤退時に多くの船を堤防に阻まれて失う結果に終わった。その後、スキピオは大規模な部隊を率いて近隣のネフェリスに陣地を構えていたカルタゴの野戦軍を撃破し、ローマ軍に抵抗していたほとんどのカルタゴの後背地の要塞を降伏させた。紀元前146年の春にローマ軍はカルタゴへの総攻撃を開始し、6日間かけて抵抗者を一掃した。都市は破壊され、50,000人に及んだカルタゴ人の捕虜は、奴隷として売り払われた。
カルタゴの旧領土はウティカを州都とするローマのアフリカ属州として再編された。廃墟となったカルタゴがユリウス・カエサルとオクタウィアヌスの下でローマの都市として再建されるのは1世紀後のことである。