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日本の士族反乱 ウィキペディアから
神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、1876年(明治9年)に熊本区(現在の熊本市)で起こった、明治政府に対する士族反乱。敬神党の乱(けいしんとうのらん)ともいう。
1876年10月24日に旧肥後藩の士族太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎ら約170名によって結成された「敬神党」により、廃刀令への反対運動として起こされた。この敬神党が反対派から「神風連」と戯称されていたため、神風連の乱の名がある。
敬神党は、旧肥後藩士族の三大派閥の一つであった、勤皇党の一派である。
肥後藩では、教育方針をめぐり3派閥に分かれており、藩校での朱子学教育を中心とする学校党、横井小楠らが提唱した教育と政治の結びつきを重視する実学党、林桜園を祖とする国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党(河上彦斎・太田黒伴雄・加屋霽堅ら)が存在した。勤皇党のうち、明治政府への強い不満を抱く構成員により、敬神党が結成された。
1876年10月24日深夜、敬神党が各隊に分かれて、熊本鎮台司令官種田政明宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ほか県庁役人4名を殺害した。その後、全員で政府軍の熊本鎮台(熊本城内)を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し、砲兵営を制圧した。
しかし翌朝になると、政府軍側では児玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直し、本格的な反撃を開始。加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡し、首謀者の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難したのち自刃した。指導者を失ったことで、他の者も退却し、多くが自刃した。
敬神党側の死者・自刃者は、計124名。残りの約50名は捕縛され、一部は斬首された。政府軍側の死者は約60名、負傷者約200名。
秩禄処分や廃刀令により明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱(一連の士族反乱)であり、連動し同年に秋月の乱や萩の乱が起き、翌年の西南戦争に至る。
種田政明邸襲撃
高島茂徳邸襲撃
与倉知実邸襲撃
大田黒惟信邸襲撃
安岡良亮邸襲撃
砲兵第六大隊襲撃
歩兵第13連隊襲撃
熊本城周辺
陸軍側の負傷者については、石黒忠悳が記録した『明治九年神風党刀創図』(陸上自衛隊衛生学校彰古館蔵)に刀創の図が記載されている。[2]
種田が殺害された際、その場にいた種田の愛妾小勝は負傷しながらも、熊本電信局へ走り、「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」(旦那はいけない、私は手傷)と打った電報を、東京の親元に送信した。このエピソードは、短く簡潔かつ的確にまとめることが重要な電報文体の好例として「朝野新聞」紙上に紹介された。その後、仮名垣魯文が脚色したものが一般に広まり、電報の利用方法や有用性が広まるきっかけの一つになった。
熊本市中央区黒髪には、神風連の烈士らを合祀する桜山神社が鎮座し、その境内には神風連資料館や、林桜園、宮部鼎蔵、河上彦斎、神風連の烈士123士の墓などもある。
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