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江戸時代前期の旗本 ウィキペディアから
天正19年(1591年)、畠山尾州家当主・畠山貞政の子として生まれる[1]。
畠山氏は元々河内国や紀伊国の守護だったが、貞政の頃にはその地位を失っており、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による紀州攻めでは秀吉軍に抵抗して敗れ、紀伊における有力領主としての立場も失っていた[5]。
その後、紀伊で生まれた[注釈 2]政信は、豊臣秀頼の重臣・片桐且元の娘婿となり、慶長19年(1614年)10月1日に、且元が大坂城を退城する際、ともに豊臣家から離脱する[6]。豊臣家離脱後は、且元のもとで大坂の役を戦い、大坂落城後の元和元年(1615年)、徳川家康からその功を賞された[2]。
寛永元年(1624年)10月になると、江戸に上って、3代将軍・徳川家光に仕え、摂津国八部郡に采地300石を賜る[1]。寛永3年(1626年)に家光が上洛する際は、家光らに先立って京都に入り、寛永11年(1634年)の上洛の際も同じ任を受けた[1]。
延宝3年(1675年)1月2日に死去[1]。享年85[1]。
寛文4年(1664年)に跡を継いだ子の基玄は、後に奥高家に任じられ、300石だった知行も加増を重ねて5000石にまで至った[1]。
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