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町田 佳聲[要検証](まちだ かしょう、1888年6月8日 - 1981年9月19日)は、日本の近世邦楽・日本民謡研究家、作曲家、音楽評論家。本名・町田嘉章(まちだ よしあき)。町田博三とも名乗る。
群馬県伊勢崎の商家生まれ。祖父の弟に黒岩涙香の作品を扱った扶桑堂創業者の町田宗七。本名の音読みから「かしょう」と通称され、この「かしょう」から「佳聲」の字を1962年(昭和37年)ごろから使用[1]。「佳聲」を名乗り、略字「声」を嫌った[要検証]。
旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て[2]、1907年(明治40年)東京美術学校図案科に入学したが、病に伏した間に趣味の三味線に没頭し、その五線譜化を独習[1]。1913年(大正2)同校卒業後は「時事新報」「中外商業新報」の芸能・邦楽担当記者となり,町田博三の筆名で執筆[3]。 そのかたわら古典邦楽を研究[1]、1920年古曲保存会を設立、邦楽レコードを制作[3]。1925年東京放送局(現NHK)創設以来邦楽番組を担当、伶明音楽会を組織して五線譜による邦楽演奏家を養成。
作曲面では宮城道雄らの新日本邦楽運動に参加、その中心人物の1人として活躍した[1]。
1927年、北原白秋の依頼で新民謡「ちゃっきり節」、1931年「春信幻想曲」なども作曲した。また、戦前は三味線の演奏家としても活動し、三味線と西洋管弦楽のための協奏曲を2曲作曲している。新交響楽団(現・NHK交響楽団)と共演した自演の音源がCD化されている。
1934年(昭和9年)に東京放送局を退職後は柳田国男の指導を受けて民謡研究に着手。日本民謡の現地採録と五線譜化に従事、この研究は民俗学的価値から国民学術協会の支援供与を受け、その成果を1940年(昭和15年)3月に室町鎌倉時代から明治末まで日本国内で歌われた労作歌および祝い歌や盆踊歌など、生活環境の変化とともに風化しつつある300曲を集めたレコード(1セット計30枚)を発売し、また、『日本民謡大観』全9冊(1944年~80年、日本放送出版協会)にまとめた[1]。
1951年、第2回放送文化賞、同年、「日本民謡研究及び関東編の発表」で芸術選奨文部大臣賞、1956年紫綬褒章、1965年勲四等旭日小綬章、1974年勲三等瑞宝章、1981年吉川英治文化賞受賞。
東京芸術大学音楽学部講師,東洋音楽学会2代目会長などもつとめた[3]。
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